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 最初の段階で「きもい」という言葉の暴力性を指摘したり、女子高生の対応の粗雑さをあげつらう形でものを言ったりした人々は、ツイッター論壇の流れの変化に対応して
 「もちろん自分は女子高生を責めるつもりはまったくない」
 「責任は100%容疑者の側にある」
 という前提を認めた上で、その地点からあらためて論陣を組み立て直しにかかる。

 で、今度は
 「自分が言っているのは、責任がどっちにあるのかという話ではない。私は被害女子高生の当日の振る舞い方として、より賢い選択肢がなかったのかどうかというお話をしている。つまり、『きもい』などという、先方を逆上させる攻撃的な言葉を使うミスさえおかさなければ、もっと安全な対処ができたということを自分は指摘しているにすぎない」
 「僕は単に助言をしたのであって、断罪しているのではない」
 「自分は、犯罪の原因がどうこうという話とは別に、『きもい』という言葉がカジュアルに使われている現状とその弊害について語っている」
 てな調子のお話がタイムラインにあふれかえることになる。

 つまり、この段階での主要な論点は、外形的には
 「あなたの言い方は犯罪を被害者に帰責させる悪質な印象操作だ」
 「いや、単なる助言だ」
 というところを飽きることもなく行ったり来たりしていた。

 私はといえば、この論点には、はじめからほとんど興味を持っていなかった。なぜというに、
 「自分は被害者を責めるつもりで言っているのではない」
 というのは、あまりにも当然すぎて議論にすら値しない大前提だからだ。

 私がこの論争に片足を突っ込みながら考えていたのは、たたかわされている議論のそのまた前提にあたる部分についてだった。

 つまり、本当の論点は
 「既に起こってしまった事件について、はたして『被害者への助言』として語られる傍観者の言葉が、意味を持ち得るものなのだろうか」
 ということと、もうひとつは
 「どうして女性の被害者にだけ毎度毎度『助言』が集まるのか」
 というポイントだ。

 女子高生の言葉の使い方に苦言を呈していた人たちが、犯罪の原因を女子高生に帰責するために発言していたのではないことは、あえて百歩譲るまでもなく、認めてさしあげても差し支えない。私自身、多くの論者が女子高生を責めるつもりでツイートを書き込んでいたのではないことは承知している。彼らは、単に助言を与えているつもりだったのだろう。

 問題があるとすれば、現実に実行犯と直面する中で実際の犯罪被害に遭った女性に対して、新聞記事を読んだだけの立場から、有益な助言を与えることが可能だと考えているその彼らの思い上がりの度し難さだ。

 ありていに言えば、女性側の現状認識力なり言語運用能力を一段低く見ているのでなければ、「助言」などという上からおっかぶせる教育的なしぐさは、はじめから持ち出すことさえ不可能であるはずなのだ。

 たとえば、男性が殴られた事件や、普通の傷害事件で、被害者に向けて
 「そんな物騒な場所を歩いているからだ」
 「一見してヤバいヤツと不用意に目を合わせるからだ」
 みたいな「助言」をカマす人間は、ほとんど見当たらない。