さてしかし、スポーツ新聞は、その一方で、たくさんの優れた記者をかかえている媒体でもある。
 私がいたましく思っているのは、実は、ここのところだ。

 紙面を見る限り、記事が劣化していること自体は否定しようのない事実なのだが、では、あの記事を作っている人たちがどうにもならないバカ揃いなのかというと、決してそんなことはないわけで、だからこそ、この話はどうにもいたたまれない悲しい話なのである。

 大学に入学した時点では、私は、スポーツ新聞社を第一番の就職先として望んでいる学生だった。
 しかし、4年生になってみると、その気持ちは萎えていた。
 というのも、私は、マスコミ志望の学生が積み重ねているタイプの準備を完全に怠っていたからだ。卒業時の成績も最低だった。で、倍率の高さと試験の難しさにひるんで、面接にすら行かなかったカタチだ。
 私は、自分をあきらめたわけだ。

 言っておきたいのは、オダジマが就職活動をしていた1980年代のはじめの時点では、スポーツ新聞社は、学生にとってそれほど困難な就職先でもあれば、憧れの職場でもあったということだ。

 その、少なくとも1990年代までは、第一級の憧れの職業であった、スポーツ紙の記者がこんな仕事をせねばならなくなっている。
 ここのところが、この話の泣けるポイントだ。

 以下にご紹介するのは、いくつかの場所で話したことがあって、そのたびに、聴き手の皆さんに微妙にいやな顔をされる話なのだが、こういう機会なので、読者の皆さんにシェアしておくことにする。いやな気持ちになるであろう人にはあらかじめ謝罪しておく。

 1980年代の半ばの3月の半ば頃、私は、とあるパソコン誌の創刊準備号の制作のために築地にある新聞社の社屋で連夜の徹夜作業に従事していた。
 深夜の編集部で、眠る前のアタマを落ち着けるべく、手近にあった冊子をパラパラとめくっていて衝撃を受けたというのがこの話の発端だ。

 私が手にしていたのは「朝日人」(←いまは名前が変わっているそうです)という名前のちょっとした電話帳(←若い人にはわかりませんね。つまり「数百ページ超、厚さ5センチ超の冊子」ということです)ほどもある、巨大な冊子だった。

 一緒に作業をしていた社員の記者さんによると、その冊子は、海外も含めて何十とあるその新聞社の支局に勤務する記者たちが寄稿している「社内誌」だった。

 「えっ? ってことは、これ、社内の人間しか読まないんですか?」
 「そうだよ」
 「で、社内の人間だけが書いてるわけですか?」
 「うん。クローズド・サーキットだよね」
 「で、この厚さなんですか?」
 「うん。自分の足を食べてるタコみたいな話だろ?」
 「……これ、べらぼうな本ですね」
 「べらぼうだよね。いろんな意味で」

 などと無駄話をしつつも、私は、そこに寄稿されている記事の多彩さと完成度に心を打たれていた。軽めの評論や、身辺雑記や、エッセー、書評や時事コラム、取材こぼれ話や、地域紹介の雑文などなど、どれをとっても整然としていて、当たり前の話だが、文章がきちんとしている。

 「なんという才能の浪費だろうか」
 と、正直、そう思った。