2020年のテレビは、つまるところ、1945年の新聞とそんなに変わらない制作物だと思う。10年後に振り返ってみればわかるはずだ。いずれも、国策標語(「進め一億火の玉だ」であるとか「3密を避けましょう」だとか)と大本営発表の部分を取り除くと、ほとんど中身は残らない。大量生産のゴミだ。

 そんな中、つい昨日(つまり、6月10日の水曜日)、さるお笑い芸人の不倫を暴いたゴシップのニュースが、しばらくぶりに昼の時間帯の液晶画面を席巻したらしい。

 でもって、それらを見たツイッタラー諸氏が、異口同音に
 「やっと日常が帰ってきた」
 という旨のツイートを投稿した。

 私は、視点の独自さをアピールせんとするアカウントたちが、結果的にほとんど同じ内容のツイートを同時発信する結果に立ち至っているSNSの末期症状を眺めながら、コロナ禍の傷の深さに感じ入っていた。

 コロナのせいで死んだのは、テレビだけではない。
 新聞も雑誌も、果ては個人発信のSNSまでもが俗悪な集団舞踏と化している。

 とりわけ、ジャンルとしての生存が危ぶまれるレベルで劣化しているのが、スポーツ新聞だ。
 今回は、スポーツ新聞の話をする。

 私にとっては、高校生だった時分から、最も深く愛読し、愛着をいだき続けてきたメディアでもある。
 そのスポーツ紙が死のうとしている。なんともさびしいことではないか。

 スポーツ新聞は、スポーツや芸能まわりの記録とゴシップを丹念に収集しつつ、一般の新聞が扱わない下世話なネタを直截な文体で伝える、良い意味でも悪い意味でも男らしいメディアだった。だからこそ、時代を代表する突発的な名文は、むしろ、全国紙よりもスポーツ紙の紙面に載ることが多かった。そういう意味で、個人的には、スポーツ新聞こそが20世紀を代表する媒体だったのではなかろうかと思っている。

 その、スポーツ紙が、コロナ騒動からこっち、ひどいことになっている。
 事情は、わからないでもない。
 なにしろ、生命線であるプロ野球が、開幕していない。
 Jリーグも開幕直後に中断して、いまだに再開していない。
 夏の甲子園も中止が決まってしまった。ということは、各地でおこなわれるはずだった県大会も開催されない。
 大相撲も、バスケットボールも、ラグビーも、ゴルフも、その他、新聞の記事になりそうな競技はほとんどすべて中断したままだ。

 こんな状況で、例年通りのマトモな紙面を作れようはずがないではないか。
 と、ここのところまではわかる。

 とはいえ、そこのところの事情を最大限に汲んでさしあげるのだとしても、いくらなんでもこの3ヶ月ほどの現状は、あまりにもひどい。

 主たる取材源である競技スポーツのスタジアムと、リーグ戦のタイムテーブルを失ったスポーツ紙が、紙面を埋めるための当面のネタ元として白羽の矢を立てたのが、テレビとツイッターであったという事実は、突然の在宅勤務で時間のツブしように困った勤め人諸氏の立ち回り先が、結局のところバカなテレビとSNSの中にしかなかったという現実に、ピタリと一致している点で、いたしかたのないなりゆきであるのだろうとは思うものの、その内容は、やはり、いくらなんでもあんまりひどすぎる。