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 ツイッター社は、このたびのミネアポリスでの事態(黒人男性ジョージ・フロイド氏が、白人の警察官に殺された事件)に関する大統領の一連のツイートに対して、「暴力賛美」の警告ラベルを付与して、一時的に非表示とする措置(ユーザーがクリックすることで再表示される)を発動することで報いている。一歩も引き下がらずに全面対決の構えを示したわけだ。

 当該のツイートには、
 《This Tweet violated the Twitter rules about glorifying violence.However, Twitter determined that it may be the public's interest for the Tweet to remain accessible.
 (このツイートは、暴力を賛美することに関するツイッター社のルールに違反しています。ただしツイッター社は、このツイートがアクセス可能な状態を維持することが公共の利益になる可能性があると判断しました。)》
 という表示が付け加えられる。

 昔なつかしい西部劇のガンファイトそのまんまだ。

 相手が構えている拳銃に縮み上がっていないことを証明するためには、結局のところ、自分のガンの引き金を引くほかに選択肢がない。物語はそういう筋立てで動いている。だから、誰もが引き金に指をかけながらものを言う。そういうふうにしてあの国における交渉事は展開されることになっている。

 こういうやり取りを見ていて、毎度のことながら感心せずにおれないのは、アメリカの国民が、様々な問題を、「対立と分断」という過程を経て解決して行くそのダイナミズムのあざやかさと危うさについてだ。

 見ているこっちはハラハラする。

 「どうしてそういうふうにわざわざコトを荒立てるのだろうか?」
 と、海外で暮らした経験を持たない私のような小心者は、彼の国の人々が、トラブルに直面するや、いきなり声を荒らげ、あるいは、互いの胸ぐらをつかむことも辞さない勢いで、自らの思うところを主張しにかかるマナーの激越さに、他人事ながら、いちいち身の縮む思いを味わう。

 日本人なら、とりあえず相手の話に耳を傾けているふりをしつつ善後策を考えているはずのタイミングで、アメリカの人たちは、いきなり旗幟鮮明に自分の側の主張を明らかにし、先方との対立点をはっきりさせにかかる。

 みごとと言えばみごとなのだが、家族以外の人間と対立することに慣れていないわたくしども街場の日本人は、彼我の主張の当否や勝ち負けの見込みを勘案する以前に、人間同士が異なった旗を掲げて対決している状況そのものに神経を擦り減らしてしまう。

 アメリカで始まった反レイシズムの運動(なのか、人種間対立なのか、でなければ、より広い範囲の矛盾を踏まえたより根源的な対立なのか)が、この先、どんなカタチで展開し、どういうふうにして収束に向かうのかは、正直なところ、現段階ではほとんどまったく想像がつかない。