伝言板は情報の向きが「一対多」で、なおかつ、書き手と読み手が基本的に匿名だった。それゆえ、書き込まれる情報は、その内容も、拡散方向も、すべてが不確かで曖昧だった。

 のみならず、私がときどき利用していた高田馬場駅の伝言板は、内容の如何にかかわらず、3時間だか6時間だかが経過したら必ず消されることになっている、テンポラリー(一時的)な情報空間だった。

 ん?
 とすると、
 「基本的に匿名」
 「発信者は一人。受け手は複数」
 「時間の経過とともに消える」
 って、これ、ツイッターとそっくりではないか。

 なるほど。私がこの10年ほどツイッター廃人になっているのもむべなるかな、という話ではある。私は、はるか40年前から、不特定多数相手の匿名発信ネタに異様な情熱を傾ける若者だった。さらにさかのぼれば、ほんの小学生だった時代から、授業中に思いついた小ネタを小さな紙に書いて回し読みさせる作業に熱中している哀れな子供だった。

 話を戻す。
 大切なポイントは、機能としての伝言板が機能としてのツイッターに似ていることではない。
 むしろ現代人たるわれわれが重視せねばならないのは、本来の機能としてはよく似たメディアであるはずの伝言板とツイッターのツールとしての扱われ方が、まるでかけ離れてしまっている現状だ。

 たとえば、ツイッターは、登場した当初こそ、そのトラフィックの多くを無邪気なネタ見せ(あるいは大喜利)と、リアルな知り合い同士のグルーミングに費やしていたものだったが、じきに、タイムライン全般を罵倒や中傷やデマやプロパガンダが埋め尽くすようになり、そこから先は、一定のタイミングでやってくる大きな炎上案件を通じて、もっぱらタイムラインで暮らす人間たちにメディア・リテラシーの教育をほどこすアイテムとして、社会に貢献している。

 そのツイッターがもたらしているメディア・リテラシー教育とは、おおよそ
 「自分の発言には責任を持て」
 「不確かな情報をうっかり拡散するな」
 「犯罪に結びつく話題にさわるな」
 「自他のプライバシー情報をうっかり発信するな」
 「思っていることを全部口にするのは子供だぞ」
 といったようなお話だ。

 「当然じゃないか」
 と思う人が多いはずだ。特に若い世代の人々にとっては、私がいまここに挙げたような注意事項は
 「いうまでもないこと」
 に属する話であるはずだ。