具体的に申し上げるなら、オダジマは、その時以降、
 「大人になるということは、一人で過ごす時間に適応することだ」
 「孤独を愛せない人間は自分自身を愛することができない」
 「ツルんでる連中は要するにアタマが悪いのだ」
 「ちいちいぱっぱは20歳前に卒業しないといけない」
 てな調子で、孤独を武器に生きていく決意を固めたわけなのだ。

 まあ、若い人間にはありがちなことだ。

 しかも、私は、その時に強く心に刻み込んだその決意からいまだに自由になっていない。
 いまでも時々顔を出すチームスピリットや集団性への敵意は、たぶん、この時に身につけたものだと思っている。
 自分ながら、半分ほどは、やっかいな病気だと思っているのだが、残りの半分では、この孤独を失ったら自分が自分でなくなると感じていたりもする。

 この感覚は、恐怖心に近いものだ。

 なので、私は、一人で自分の部屋にいる時の自分と、公共の場所で他人とともに過ごしている時の自分が、ひとつながりの同じ人間であるという実感を、明確に抱くことができない。だからこそ、自室からテレビ電話経由で他人と対話をしていることに、なかなかうまく適応できないのだと思っている。

 これ(様々な場面で、自分自身の身の置きどころを見つけられないこと)は、しかし、私に限ったことではない。
 誰であれ、一人で過ごしている時と、他人と共存している時では、多かれ少なかれ人格を変容させている。とすれば、テレワークの会議で自分自身を見失ってしまうことは、むしろ自然な反応であるはずだ。

 ずっと昔に読んだ心理学だったか社会学だったか社会心理学だったかの本に、こんなことが書いてあった。きちんと出典を探し出して、原著を手に入れて正確に引用した上で話ができればそれはそれでこのテキストも、もう少し学問的に信頼の置ける文章になるかもしれないのだが、当稿はそういう原稿ではない。

 私が読んだのは、ドイツ軍のある将校が、ナチスの制服を着ることで自身の人格を「区画化」しているというお話だった。つまり、制服を脱いで自宅でくつろぐA氏は良き夫であり優しい父であり、温厚なご近所さんでもある。ところが、ひとたび制服を着用するや、A将校は、冷酷無比な死刑執行人として、顔色ひとつ変えずに職務に従事したのである。

 ナチスの将校でなくても、われわれは、公的な人間として振る舞う時、社会に対峙するための服装と肩書と場と決意の助けを借りている。もっと言えば、当たり前の人間に見えるビジネスパーソンとて、その一人ひとりは、背広という社会的外骨格を装着し、通勤という社畜生成過程の通過儀礼をくぐりぬけることではじめてそれらしい機能を果たし得ているのである。

 とすれば、猫の毛がふわふわしている自室で、息子が食べ残したクッキーなんかを食べつつ、GU謹製のルームウェア上下1980円也を身にまとった状態でテレワークの会議に出ている営業部長53歳が、チームを率いるリーダーとして十全な役割を果たせる道理は皆無なわけで、実に、裸に剥いた孤独な人間は、社会的には役立たずなのである。