ちなみに解説しておくと、「自粛要請」というこの政策用語は、日本語として明らかに破綻している。その意味で、政治家はもとより、行政にかかわる官僚が国民に対して使って良い言葉ではない。
というのも「自粛」は、そもそも自粛をする当人の判断でおこなわれるべき行動で、本人以外の人間の判断が介在したら、それは「自粛」ではないからだ。であるからして、当然、「自粛」は、他人(もちろん政府であっても)が自分以外の人間(つまり国民)に対して「要請」できるものではない。
「自粛」が「要請」できるのであれば、「自殺」も「要求」できることになる。とすると、「依願退職」すら「命令」可能で、このほか、喜怒哀楽や真善美を含めてすべての感情や判断や評価は、他人のコントロール下に入ることになる。と、料理を提供する側が舌鼓乱打要請を提出したり、演奏家が感動要求を持ち出したり、コラムニストが目からウロコ剥落申請を示唆するみたいなことが頻発する世の中がやってくる。こんな無茶な日本語を政府が使っていること自体、あり得ない不見識なのである。
さて、政府が、「補償とセット」として扱われる「休業要請」を、「自粛要請」という言語詐術の次元に後退させなければならなかった理由は、おそらく「政府」の立場が必ずしも一枚岩ではないからだ。
一言で「政府」と言っても、その内実は、さまざまな立場や部署や役割に分かれている。なるべく広範な「補償」を配布したいと考える部門の人々もいれば、無駄な支出を抑制することが役目であるような人々もいる。であるから、「政府」の総体としては、「休業によって経済的に困窮する国民の生活を補償」しつつ、その一方で「巨額の支出でお国の経済が傾く」ことは極力回避せねばならないわけで、彼らは、常にいくつかの相反する思惑に引き裂かれているわけなのである。
まあ、ここまでのところはわかる。
補償を実現したいのはヤマヤマだが財源を考えると二の足を踏む、と、お役人の発想では、どうしてもそういったあたりを行ったり来たりすることになっている。
だからこそ、政治家の決断で、時には、思い切った緊急の政策を打ち出さなければいけない。それが政治決断と呼ばれているものであるはずだ。
個人的には、赤字国債を発行するとか現金を余計に印刷するとかして財源を確保しつつ、とにかくこの急場をしのぐのが第一の選択なのではなかろうかと思っている。
現金を大量にばら撒けば、当然、それなりの副作用もあるのだろうが、それをしなかった場合の経済の落ち込みを考えれば、広く国民に当座の現金を給付する政策は、景気浮揚策としても好ましい効果を発揮するはずだ。
ところが、西村新型コロナウイルス対策担当大臣は、休業補償をすんなりと約束しようとしない。
「2週間待ってくれ」
と、この期に及んで極めてヌルい緊急事態対応を打ち出している。
なぜなのか。
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