今回のマスク事案も、大筋の話型としては、五輪の暑さ対策とまったく同じだ。
 「何もしないよりは、とにかくいまできることを精一杯やろうじゃないか」
 式の精神論丸出しの、コスト&ベネフィットを一切考慮していない、徹底的に愚かな作戦だ。

 ついでに思い出したのは、千人針のことだ。
 これについても、2015年7月更新分の当欄で原稿を書いたことがある。当該の記事は、残念なことに、すでにリンク切れになっている。以下、概要を紹介しておく。

 記事そのものは、「エコキャップ推進協会」(世界の子供にワクチンを届ける目的でペットボトルのキャップを集めている団体)が、その売却益を別の使徒にあてていた問題を扱った話だったのだが、話題の中心は、いつしかエコキャップ運動の異様なまでの効率の悪さへの考察に移り、最終的には「効率の悪さにこそ真心が宿る」
 という、わたくしども日本人の中にある信念の不可思議さにたどり着くことになった。
 じっさい、ベルマーク運動や、缶飲料のプルタブ収集運動、さらには千羽鶴や千人針などなど、私たちは
 「大勢の人間が、個々の小さな労力を結集して集団全体の気持ちを届けようとする運動」
 を偏愛している。
 われわれの中には、千羽鶴というブツがもたらす効果そのものよりも、大勢の人間が千羽鶴に込めた「思い」や「真心」に寄り添うことこそが、赤い血の流れた人間としての正しい判断だとする価値観が、牢固として根を張っている。であるからして、よく訓練された日本人は、兵隊さんの防寒や防衛のためには役に立っていなくても、はるか銃後の女学生が、ひと針ひと針心を込めて縫い上げた千人針には、ある種の霊力が宿るはずだという思想を抱くに至る。

 今回のマスクも、その「千人針効果」抜きで評価したら、およそ効果の薄い物品に化けてしまう。
 そもそも、マスクの生産体制について、経産省は2月26日の段階で、「週に1億枚」を約束する旨の告知をしている。

 にもかかわらず、それから1カ月以上、マスクは、一般家庭には配布されず、店頭にもろくに並ばなかった。

 こんな状況下で、WHOによって対ウイルスの効果が疑問視されている布のマスクを、一世帯あたり2枚配って、それで何かを成し遂げた気持ちになってもらったのでは、先が思いやられる。

 もちろん、何もしないよりはマスク2枚でも、雑巾5枚でも配れば配っただけの意味はあるのだろう。

 しかし、一世帯あたり2枚のマスクを郵送で5000万通配布するための手間と費用と時間を、別の何かに振り向けたら、より実のある施策が展開できるのではなかろうか。費用対効果として、もっと国民のために役立つお金の使い方が、いくらでもあるはずだ。
 なのに、政府はなんとしてもマスクを配るという。

 狙いは何だろう?