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 世間の空気を忖度したり、他者からの圧力に屈して活動範囲を狭めたりする反応は「萎縮」と呼ばれるべきだし、自分以外の人間や集団に自粛を求める態度は「恫喝」ないしは「強要」と名付けられなければならない。

 さて、今回は、あえて個別の事件や出来事に焦点を当てることを避けて、この半月ほどの間に私が「政治家の言葉」について考えたことを書いてみようと思っている。

 このテーマを選んだ理由は、ドイツのメルケル首相が3月18日(現地時間)の夜に発信したテレビ演説に感銘を受けたからだ。
 私は基本的に「感動」という言葉は使わないことにしているのだが、今回のテレビ演説に関しては、その言葉を使ってもかまわないと思った。それほど強く心を打たれた。
 全文の日本語訳は、こちらのサイトで読むことができる。

 冒頭で書いた通り、3月にはいってからというもの、あらゆる事態がとんでもない勢いで動いている。そして、この状況を受けて、世界中の政治家たちが、それぞれに強いメッセージを発信している。私は、先日来、危機的な状況を前に立ち上がった世界の政治家たちの言葉に耳を傾けながら、政治家が言葉を扱う仕事なのだということを、あらためて思い知らされている次第だ。

 そうなのである。政治家は、一も二もなく、言葉で説明することの専門家であったはずなのだ。

 ちなみに、政治家が言葉の専門家であるという旨のこのお話は、ずっと以前から、専修大学の岡田憲治先生が繰り返し強調しているテーマだ。私も、直接お会いした機会に、いくたびか詳しくお話をうかがっている。
 より詳しいところは、『言葉が足りないとサルになる』あたりの著作に詳しい。ぜひ一読してみてほしい。

 コラムニストも、言葉を扱う仕事に従事する人間ではある。
 ただ、文筆業者の仕事は、文字をいじくりまわすことでなにがしかの表現をたくらむ言語玩弄者としての側面をより多く含んでいる。それゆえ、言葉への誠実さにおいて、政治家にはかなわないと思っている。

 まあ、このあたりの事柄についての見解は、人それぞれ、立場によって、まるで違っていたりもするはずだ。なので、これ以上突き詰めることはしない。ここでは、私がそんなふうに思っているということを簡単に受け止めていただければ十分だ。話を先に進めることにする。

 さて、私が感心したのは、メルケルさんの演説だけではなかった。
 イギリスのボリス・ジョンソン首相のテレビ演説も、メルケル首相の演説とは別の意味で見事な出来栄えだったと思っている。