政府が、フリーランスの人間の働きぶりに注意を払っていないのは、日本人がフリーランスをまともな日本人の一員として認めていないその認識を反映した結果だ。

 政府の担当者が、フリーランスには一般の労働者の半額をあてがっておけばそれで事足りると考えて、4100円という金額をはじき出したのは偶然ではない。

 彼らがそう考えたのは、われら「日本人」の総意としてフリーランスを「半人前の人間」として扱っていることの当然の帰結と考えなければならない。

 また、蓮舫議員の問いかけに対して、「最低時給×4時間」というおよそバカにした回答を返した人間のその算定基準は、わたくしども「日本人」の多数派が、フリーランスの働きぶりを「遊び半分」と考えている常識をそのまま数式化したもの以外のナニモノでもない。

 一般のカタギの日本人は、フリーランスの人間が貧困や将来への不安に苦しむことを
 「自由な生き方に対する当然の報い」
 「気ままな暮らしへの反対給付としての貧困」

 くらいにとらえている。

 そうでなくても、この20年ほど、アメリカから輸入したはずの新自由主義が、「自己責任」という言葉を、「自由への罰」という考え方とともに拡散する形で、日本独自の他罰思想として定着している傾向は否定できない。

 私自身、フリーランスの立場で仕事をしながら、いつしかのんべんだらりと還暦を超えるに至った人間であるわけなのだが、いまだに親戚郎党からは一人前の扱いを受けた経験を持っていない。

 「うらやましいよね」
 「気楽でいいよなあ」
 「タカシ君はほんと子供の時のまんまだなあ」

 と、法事やら葬式やらで顔を合わせた親戚筋からは、必ずやその種の言葉を頂戴する。

 これらの言葉は、お世辞なのか羨望なのかそれとも揶揄なのか軽侮なのか、簡単に決められる性質の感慨ではない。

 一面、自由な生き方を称揚しているようでもあれば、不安定な生活を憐れんでいるようにも聞こえる。

 はっきりしているのは、彼ら「普通の日本人」が、フリーランスの人間の働きぶりを
 「変わっている」
 「普通じゃない」
 と、ある種の「ファンタジー」としてとらえている点だ。

 そのうえでうらやむのかバカにするのかは、結局、年収次第ということになる。

 せちがらい話だ。

 誤解してもらっては困るのだが、私は愚痴をこぼしているのではない。
 自慢をしているのでもない。
 ただ、フリーランスの働き方が、日本的な生き方ではないということをお伝えしようとしている。