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 なので
 《「個人主義が増える中で、多種多様な世界をみんなで受け止めてほしい」という野村萬斎氏のコメントの意図が心底から理解できない。「多種多様」な世界や生き方を許容するのがつまりは「個人主義」なんじゃないの? 違うの? 「滅私奉公」が多様な世界なわけ - 2020年2月9日午後3時18分

 《「多種多様な世界」てなことを言っておけばとりあえず「動員」臭を緩和できると思ってるとしか思えない。 - 2020年2月9日午後3時21分

 《だからこそ、一方の口で「多種多様な世界をみんなで受け止めてほしい」と言っておきながら、別の口で「個人主義が広がっているなかで」てな調子で、「個人主義」をやんわりとディスることが可能なのだね。- 2020年2月9日午後3時23分

 《五輪に関係している人たちは、なぜなのか、ことあるごとに「個人主義」への疑義を表明しがたる。もしかするとオリンピックへの熱狂を演出しようとしている人たちの心底には、この国に個人主義が蔓延することへの危機感があらかじめ共有されているということなのだろうか。- 2020年2月9日午後3時35分

 という、4つのtwを連投した。

 いまさら申すまでもないことだが、アイヌの伝統舞踏を開会式のプログラムから排除することは、普通に考えて「多種多様な世界をみんなで受け止める」態度とは、正反対のスタンスだ。

 ところが、野村萬斎氏のアタマの中では、これらが矛盾しない。

 というのも、彼にとっての「多種多様な世界」は、「世界中の様々な国から様々な文化を背負った多様な人々がやってくること」を意味していて、それは、「一つに団結した、単一の文化と歴史と民族と王朝を2000年にわたって持ちこたえてきた私たちのニッポン」とは、対極に位置する、まったく別の概念だからだ。

 それゆえ、多様性は、自分たちの内部にではなく、オリンピックという舞台そのものが担う。

 そして、その「多様性の祭典」たるオリパラを主催する自分たち日本人は、「個人主義」を排して、「私心」を捨てて、「全体」ないしは「公共」に尽くすことを旨として、「全員団結」を旗印に協力しようではありませんか、てなお話になる。

 書いていて気持ちが萎えてきた。

 たぶん、わたくしども日本人は、たやすく一つになることだろう。

 そういう時、典型的な日本人と見なされない日本人は、「はまらなかった」という言葉とともに、冷たく排除されることになるはずだ。

 私自身、はまることができるものなのかどうか、自分を疑っている。

 私はつぶされるかもしれない。