マスクが品薄らしい。
案の定の展開だ。
マスクが品薄になることは、多くの人々にとって、十分に予想されていたことだった。
にもかかわらず、その不吉な見込み通りに、マスクはもののみごとに品薄になっている。
なぜかといえば、多くの人々にとってマスクが品薄になる展開が明らかに予見できたからだ。
同語反復に聞こえるかもしれない。
が、実際問題として、その同語反復が現実の事態として実現しているのだからして、これはどうしようもない。
不安は現実化する。
なぜなら、不安な未来を呼び寄せるのは、未来への不安だからだ。
これも同語反復だ。
未来について人々が不安を抱けば抱くほど、不安通りの近未来が招来する。これは、不安という感情の性質からして、回避しようのないなりゆきだ。
たとえば、銀行の取り付け騒ぎは、人々が金融制度の信用性に不安を抱くことで引き起こされる。
というのも、個々の預金者にとって、万が一にも自分の預金が引き出せなくなる事態を回避するためには、とりあえず自分の預金を全額引き出しておくことが、最も確実な手立てだからだ。さてしかし、多くの預金者が預金をおろすと、銀行の資金力は衰えることになる。
と、金融システム全体から見て、銀行の信用性が毀損されて信用不安が増大する。その結果、預金者にとってはますます預金を引き出す緊急性が高まる。こうなってしまっては、取り付け騒ぎはもう誰にも止められない。そもそも、銀行の信用というのは、「預金者が一斉に預金を引き出さないこと」を前提に保持されていた一種の「思い込み」であったわけで、だとすれば、その幻想なり思い込みなりに疑念が生じた時点で、信用は雲散霧消する。これはどうしようもないことだ。
2月5日のNHKの夜のニュース番組は、このマスク不足について、異例の長時間を割いて報道していた。
国会での与野党の論戦に関するニュースの冷淡さ(←解説を一切省いて、野党の質問に答える安倍総理の録画編集映像をそそくさと再生するのみでした)に比べて、マスク不足を伝えるニュースの熱心さは、文字通り「異常」に映った。
個人的な印象としては
「NHKの中の人たちは、視聴者のマスク不足への不安を煽ることで、いったい何を実現したいのだろうか」
と思わずにはいられなかった。
おそらく、マスクのニュースをとりわけ熱心に伝えていたスタッフの真意は
「これからの季節、花粉症などで、どうしてもマスクが必要な人もいるので、過度な買い占めはやめましょう」
「話題の新型肺炎を予防するために、マスクがある程度有効なことはたしかですが、かといってマスクが予防の切り札になるわけではありません。もちろん手洗いも重要です。いずれにしても、マスクに過度に頼ったり、マスクを過剰に買いだめしたりすることはおすすめできません」
てなことを訴えるところにあったのだろう。
その気持ちはわかる。
しかし、当たり前の話だが、伝える側の真意が、それを受け止める側にそのまま伝わるとは限らない。
おそらくだが、ニュースを見た視聴者の多くは
「なるほど。マスクが品薄なのか。いまのうちに買い置きをしておかないといけないな」
と思ったはずだ。
しかも、重要なポイントは、そうすること(マスクの買い置きをすること)を、平均的な視聴者が「賢い対処」と考えていたに違いないことだ。
もう少し詳しく解説すると、情報の受け手である視聴者は
「愚かなテレビ視聴者がパニックに陥ってマスクを買い占めることで市場からマスクの在庫が消滅してしまう前に、賢い消費者たる自分としては、当面の備えとしてマスクの買い置きをしておくことにしよう」
という順序でものを考える。
つまり、個々のテレビ視聴者からしてみると、他人(あるいは「愚かな大衆」)が、マスクを買い占めることが「愚行」「パニック反応」「利己主義」「浅ましい消費者行動」であるのに対して、自分がマスクを買い置きすることは、「当然の生活防衛」であり「賢明な消費行動」であり「機敏な市場対応」だというお話になる。これは、理不尽なようでいて、個々の消費者の心理からすれば、無理からぬ反応でもある。
だって、バカな人たちがマスクを買うことで市場からマスクが消えてしまうのが目に見えているのだとしたら、マスクが市場から姿を消す前にマスクを買い置きすることのどこが愚かだと言えるのだ?
というよりも、個々の消費者の賢い(あるいは「無理からぬ」)消費行動が、市場全体から見て愚かなパニック反応として作用してしまう行きがかりは、商品市場の呪いというのか「合成の誤謬」という言葉で説明されるべき宿命だ。これは、テレビ局が視聴者に自覚を促したり説教を垂れたりすることで防げるような単純なお話ではない。
むしろ、上からおためごかしの説教を垂れることで、結果として視聴者のパニックを煽りにかかっている彼らの態度をこそ「愚行」と呼ぶべきなのではなかろうか。
私は、はっきりとそう思っている。
あれは、愚かなニュースだった。
それにしても、NHKの番組スタッフは国会のニュースについて解説することを、どうしてあれほどまでにあからさまに避けようとするのだろうか。
もしかして、マスクにこだわっているのは、国会のニュースを伝えないためなのか、と、そう思いたくなるほど、この1年ほど、NHKの報道姿勢は脱政治的な話題に傾いている。
マスクと五輪のスタジアムとトランプと聖火のトーチとオリンピックとオリンピック。いい加減にしてほしい。
話をもとに戻す。
NHKが口を酸っぱくして
「必要以上のマスクの買い占めは本当にマスクを必要としている人を苦しめることになるので、できれば控えてください」
と繰り返しているお説教は、視聴者の耳に
「バカな人たちが必要以上にマスクを買い占める危険性があるので、賢い消費者であるあなたにはいまのうちに自分に必要な分のマスクを確保しておくことをおすすめします」
というメッセージとして届いている可能性がある。
これは、由々しき事態であると申し上げねばならない。
実際、トイレットペーパーでもマスクでも同じことなのだが、あの種の必需品は、「一般の消費者が必要以上に買いだめをしない」ことを前提として流通している。
特に、トイレットペーパーやティッシュペーパーのような、売り場や倉庫に置いた時にやたらとかさばるわりに、たいして利幅の大きくない商品は、小売店にとって「なるべくなら在庫したくない商品」でもあるわけで、それゆえ、個々の消費者がなんらかの理由で、普段よりも多めに買い置きをしておこうと考えると、またたく間に市場から在庫が消えることになっている。
要は、生産者から流通業者、小売業者を経て消費者に至るまでの経路の個々のメンバーが、それぞれに適正にして最小限の在庫量を心がけていれば、商品は健全に流通するはずなのだ。しかし、どこかの段階で、買い占めによる価格高騰を狙う不良業者や、棚が空になる不安から買いだめに走る消費者が現れると、商品流通市場は、またたく間に機能不全に陥る。
いわゆる「合成の誤謬」は、経済の世界だけでなく、報道の現場でも起こっている。
私がいちテレビ視聴者ならびに新聞読者として感じているところを率直に申し上げるに、たとえば、今回の新型肺炎については、個々の報道機関が、それぞれのページビューなり視聴率なりを追求した結果、日本のメディア全体としてのニュースは、およそ信用のならない水準に着地している。
民放の情報番組は、いたずらに危機感を煽る一方で、パニックに陥った人々を嘲笑している。
しかも、これらは、同じひとつのニュース枠の中で、一貫した情報として提供されている。
まるで、あるタイプの食品メーカーが右手で酒を売っておきながら、左手でウコン入りの怪しげな二日酔い対策サプリメントを販売している手口にそっくりだ。
彼らは、一方の口で
「気をつけろ」
「こわいぞ」
「用心しろ」
と警告を発しつつ、もう一方の口で
「過剰反応するな」
「パニックは禁物だ」
「落ち着け」
と言っている。
しかも、単にパニックをしずめるのではなく、それをネタに冷笑をあびせている。
「見てください。棚が空っぽです」
「ほら、観光地もこんな調子です」
「あらあら、あきれましたね」
「いったい何を考えているのでしょう」
いや、わかっている。
個々のニュース原稿を書いている個々の記者は、それぞれの場面に応じた適切な言葉を書き連ねているつもりなのだと思う。
でも、それらのニュースを通しで見ているこっちからすると、彼らが配信しているニュースは、総体としてはマッチポンプにしか見えないのだ。
私は、すらすらと英語が読める人間ではない。
それでも、新型肺炎に関しては、海外のニュースサイトを見に行った方が、ずっと有益な情報が得られると思っている。
事実、ニューヨーク・タイムズやBBCのホームページに載っている表やグラフは、言葉のハンディを超えて、明らかにわかりやすく今回の新型のウイルス性疾患の全体像を伝えてくれている。私はツイッター経由で流れてきた、それらの情報に、色々な点で蒙を啓かれたと思っている。
心配なのは、ニュース番組・紙面を作っている人たちが、どのタイプの情報提供が視聴者・読者を誘引して、どんな書き方をすればページビューが稼げるのかといった課題に日々心を砕いている一方で、どのニュースにどれだけの放送時間(あるいはスペース)を割り当てるのかについて考える努力をおろそかにしているのではなかろうかということだ。
この場を借りてお伝えしておくが、私は、この一年ほど、NHKのニュース番組「ニュース7」と「ニュースウオッチ9」については、はっきりと不信感を抱いている。
あんなに毎日毎日オリンピックの話ばかり繰り返すのであれば、いっそ「オリンピックの顔と顔」くらいなタイトルで放送した方がふさわしいのではないかとさえ思っている。
不安は現実化する。
不信もたぶん現実化する。
不信を抱く方が悪いのだと、あるいは、彼らは言うかもしれない。
私は、そうは思っていない。不信を感じさせる側がいけないのだと思っている。
メディアに不信感を抱くことが、必ずしもメディア・リテラシーの本旨でないことはわかっている。
とはいえ、マスクがウイルスを完全に遮断できないのと同じように、受け手の側のメディア・リテラシーがすべてを解決するわけではない。
NHKの皆さんには、とりあえずマトモな国会報道を回復してもらいたい。
症状が致死的にならないうちに、手を打ってくれるとありがたい。
(文・イラスト/小田嶋 隆)
小田嶋隆×岡康道×清野由美のゆるっと鼎談
「人生の諸問題」、ついに弊社から初の書籍化です!
「最近も、『よっ、若手』って言われたんだけど、俺、もう60なんだよね……」
「人間ってさ、50歳を超えたらもう、『半分うつ』だと思った方がいいんだよ」
「令和」の時代に、「昭和」生まれのおじさんたちがなんとなく抱える「置き去り」感。キャリアを重ね、成功も失敗もしてきた自分の大切な人生が、「実はたいしたことがなかった」と思えたり、「将来になにか支えが欲しい」と、痛切に思う。
でも、焦ってはいけません。
不安の正体は何なのか、それを知ることが先決です。
それには、気心の知れた友人と対話することが一番。
「ア・ピース・オブ・警句」連載中の人気コラムニスト、小田嶋隆。電通を飛び出して広告クリエイティブ企画会社「TUGBOAT(タグボート)」を作ったクリエイティブディレクター、岡康道。二人は高校の同級生です。
同じ時代を過ごし、人生にとって最も苦しい「五十路」を越えてきた人生の達人二人と、切れ者女子ジャーナリスト、清野由美による愛のツッコミ。三人の会話は、懐かしのテレビ番組や音楽、学生時代のおバカな思い出などを切り口に、いつの間にか人生の諸問題の深淵に迫ります。絵本『築地市場』で第63回産経児童出版文化賞大賞を受賞した、モリナガ・ヨウ氏のイラストも楽しい。
眠れない夜に。
めんどうな本を読みたくない時に。
なんとなく人寂しさを感じた時に。
この本をどこからでも開いてください。自分も4人目の参加者としてクスクス笑ううちに「五十代をしなやかに乗り越えて、六十代を迎える」コツが、問わず語りに見えてきます。
あなたと越えたい、五十路越え。
五十路真っ最中の担当編集Yが自信を持ってお送りいたします。
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