
書斎として使っている部屋のPCの横に、小型(19インチ)のテレビ受像機を置いている。
仕事をはじめる気持ちになれない時、私は、このテレビをつけておくことが多い。もっとも、音声はミュート(消音)したままだ。おそらく、画面の中を右に左に動いている人間たちを眺めることが、私にとって、窓を開けて空気を入れ替えることの代償になっているのだと思う。あまり健康的なテレビの使い方ではない。本当は外に出て、自分の足で町を歩くべきなのだ。それはわかっている。しかし、いつもわかっている通りにできるわけではない。
この2日ほどは、音量を上げて国会中継を視聴していた。
しばらくぶりに見る国会は、頽廃している。
私は、こう見えて、他人を軽蔑することに慣れていない。誰かを軽蔑せねばならない事態に直面すると、いつも大変に疲労する。そんなわけで、私は、現在、ひどく疲れている。
国会でかわされているやりとりが、日本国民の言語運用の水準をそのまま代表するものだと考えているわけではないのだが、それでも、現実に目の前で展開されている対話の空疎さには、やはり唖然とさせられる。
あのやりとりを聞いていると、自分たちの暮らしているこの世界が、足元から崩れて行く感覚に襲われる。学生の頃に連れて行かれた出来の悪い前衛芝居を見ていた時の気分に近い。中途半端に無意味な脚本は、観客を解釈の地獄にひきずりこむ。国会の質疑を見ているわれわれも、たぶん、同じタイプの地獄の中にいるのだと思う。
今回は、わたくしがこの2日間、国会中継をしっかりと視聴したなかにおいて、印象に残ったところを、いわば、書いてみようかと思っている、ところで、ございます。
とは言ってみたものの、私が国会を見たのは2日間の通算でたったの3時間ほどだ。
それ以上は無理だった。
わがことながらなさけない始末だ。
ただ、3時間で視聴から撤退せねばならなかったことは、自覚の中では、美意識の問題だと思っている。
「あ? 美意識?」
と思った向きもあるはずだ。
「何を利口ぶっているんだか(笑)」
「還暦を過ぎたじいさんが繊細ぶるのもたいがいにしてほしいもんだぜ」
うん。そう言いたくなる気持ちはわかる。
でも、私は、繊細ぶっているのでもなければ、被害者ポジションにあぐらをかいてぬくぬくしているのでもない。現実に、私は、国会中継を視聴しはじめてほんの1時間ほどで、すっかり気勢をそがれてしまったのだ。
大げさに聞こえるかもしれないが、このままこんな不毛な言葉のやりとりを聞き続けていたら、自分の言語感覚が二度と正常さを取り戻せなくなると、そう感じて、護身のためにテレビの電源を落としたのである。
良心的な板前が腐った魚をさばくミッションに耐えられないのと同じことで、言葉を扱う仕事に従事している私のような人間は、国会でやりとりされている腐敗した言葉を我慢することができない。
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