さて、私が自分の中で思っているニュアンスでは、あくまでも
 「因習的、閉鎖的な、地縁、血縁のコミュニティーから脱却できていない人々の集合」

 に対して「田舎」という言葉を当てはめているつもりでいる。

 であるからして、その意味での「田舎」に対する反義語の「都会」は、
 「故郷を捨ててきた人々が集っている場所」
 「固定的な地縁や血縁とは違う複数のコミュニティーの間を自在に行き来している人々が暮らしている空間」
 「複線的な人間関係を構築している自立した人々が暮らしている町」

 てなことになる。

 ということは、東京で暮らしている人々のうちの東京生まれの人間たちは、「自分の住処のすぐ近所に地縁や血縁を持っている人間」であるという意味で、「田舎者」ということになる。実際、東京にはそういう東京在所の閉鎖空間の中で暮らしている田舎者がそこそこ暮らしている。

 わがことながら、変な理屈をふりまわしてしまったものだと思っている。

 私が独自の意味をこめて使っている「都会人」「田舎者」という2つの言葉は、わかりにくいのみならず紛らわしい。なにより誤解を招きやすい。その点で、端的に申し上げて、愚かな用語法だと思う。その点はさすがに了解した。なので、今後は封印しようと考えている。

 文脈にあわせて「閉鎖的な人」「オープンマインドな人」「島国根性」「コスモポリタン」あたりの言葉を代置していった方が賢明だし、それ以前に、多数派の人間に誤解されるような用語法は結局のところ独善にすぎないと思うからだ。

 とはいえ、正月に連投した一連のツイートの顔を立てて、ここでは、正月という時間が、単なるカレンダー上の設定ではないことを強く主張しておきたい。正月は、「故郷」「実家」「血族」「子供時代」「儀式」といった、われわれの心のうちにある空間や記憶を冷凍保存している点で、まごうかたなき「田舎」なのである。

 であるからして、正月のなつかしさもうっとうしさも、つまるところ、田舎のなつかしさであり田舎のうっとうしさだ、と、ここは一番、そう考えるのが正しい。

 われわれは、年に一回は、必ずその場所(つまり、「個々の日本人の内なる田舎としての正月」)に立ち戻らなければならない。そういう決まりになっている。

 もし、日本から正月がなくなったら、日本は日本でなくなってしまう。

 私個人は、日本が日本でなくなったところでかまわないではないかと思っているのだが、どうやら、日本人の多数派は、日本が日本であるために、あるいは、日本人が日本人らしくあるために、せめて正月の三が日ぐらいは、正月らしく過ごさなければならないと、そんなふうに心に決めていたりする。そのわれわれ一人ひとりの悲壮な決意が、互いにとってうっとうしい圧力となって降りかかってくる、おそらくは、正月という習俗の正体なのである。

 であるからして、われわれが、空間としての「実家」に帰っている時、われわれは、時間としての「幼年期」や「一家団欒の記憶」に帰っている。それゆえ、互いに疎遠であった何十年かの時間を超えて実家に集結した家族たちは、正月の芝居に疲労せねばならない。なんというめんどうくさいシナリオであることだろうか。