「桜を見る会」の名簿データが消去された話を聞いて、私は、一も二もなく
「データの一滴は血の一滴」
という言葉を思い浮かべた。
で、早速そのフレーズをタイプした勢いで原稿を書き始めた次第なのだが、冒頭の10ラインほどに到達したところで、
「ん? なんだかこのテキストは、むかし書いたおぼえがあるぞ」
ということに思い当たった。
原稿執筆中にデジャブに襲われるのは、実のところ、そんなに珍しいなりゆきではない。
たとえば、武者小路実篤先生の晩年の作品には、同じフレーズや描写が、かなりの頻度で登場する。
武者小路先生ご自身が、自分でわかっていて自己模倣をやらかしていたのか、それとも無意識のうちに同じ文章を繰り返し書く症状を獲得するに至っていたのかは、いまとなっては誰にもわからない。
ともあれ、ある程度年齢の行った書き手は、いつしか、昔書いたのと同じ文章を書いている自分自身に遭遇することになっている。そういうものなのだ。
さいわいなことに、21世紀の書き手は、検索機能を備えたパソコンを所持している。おかげで、あからさまな二度ネタは、なんとか事前に回避することができる。もっとも、二度ネタを回避できるのは、本人が自分の堂々巡りに気づいたケースに限られるわけだが。
旧原稿のフォルダ内をワード検索してみた結果、2017年の6月付で当欄にアップしたテキストにたどりついた。
読んでみると、私が今回声を大にして訴えようとしていた内容が、ほとんどそのまま書き記されている。
時間に余裕のある向きは、当稿を読みはじめる前に、できればリンク先にある2年半前の拙稿を参照してみてほしい。
読者はおそらく、いま現在「桜を見る会」の周辺で展開されているのとほぼまったく同じ出来事が、ちょうど2年半ほど前に、いわゆる「モリカケ」関連のスラップスティックコメディーとしてすでに演じられていたことに、驚かされるはずだ。
私たちは、2年半前の時点から、一歩も前に進んでいない。
この国の人間たちは、前回と同じ追及と言い逃れのプロットを行ったり来たりしながら、一向に代わりばえのしない廃棄と隠蔽のストーリーをなぞったあげくに、例によっていつか来た道筋の半ばで不揃いなステップを踏んでいる。
なんということだろう。
私たちは、悪夢のような政権の後を引き継いだつもりでいる間抜けなリーダーが率いるこのケチくさい地獄の真ん中で、いかにも凡庸な悲劇の主人公におさまっている。しかもその役柄に退屈しはじめている。ということはつまり、何日か後に国会が閉会して、このアンチクライマックスの舞台が昔なじみの不潔な思い出に変わる頃には、誰もが負け犬の衣装を身にまとっているのである。
今回の経緯を振り返っておく。
「桜を見る会」の名簿は、すでにシュレッダーで裁断されたことになっている。
奇妙な話だ。
毎年開かれるイベントの招待客名簿を、年ごとに裁断廃棄することは、継続性と一貫性を重んじる行政官僚の所作として、いかにも理屈に合わないやりざまだ。
仮に、個人情報の漏洩を防ぐために名簿の裁断が必要だったのだとしても、普通に考えれば、廃棄のタイミングは、翌年分の名簿が完成した後でなければならなかったはずだ。
なんとなれば、栄誉ある恒例のイベントにおいて、招待客の人選は、前年の実績を踏まえるのが常道だからだ。まして、「桜を見る会」は、総理主催の国家的なイベントであり、その伝統は戦後からこっち50年以上も続いている。とすれば、前例を踏襲しない選択肢は選びようがないではないか。
前年とまったく同じメンバーに宛てて招待状を発送するのではないにしても、当年分の招待メンバーと、翌年の招待客を突き合わせて検討する作業は必ずや必要になる。逆に、年ごとにすべての設定をリセットして、招待客選びを毎回ゼロからやり直すタイプの名簿制作手順は、作業効率からして論外だし、それ以上に、先の敗戦以来、営々として受け継いできた「伝統」の名において到底許されるものではない。
でもまあ、それはそれとして、名簿がすでにこの世に無いことは、残念ながら動かしようのない事実だ。
大変に認めにくい現実ではあるのだが、私たちは、とにかくこの現実を受け入れなければならない。そうでないと話が先に進まない。
官房長官は、たしかに名簿を裁断したと言っている。内閣府のお役人たちも異口同音に既製品の言葉を繰り返している。なにより安倍首相ご自身が、シュレッダー作業に従事した担当者の属性をあえて明らかにしてまで、廃棄作業が確実に遂行された旨を証言している。
とすれば、いち国民としては、お上の言葉を信じるほかにない。
よろしい。名簿は消えた。ここまでは認めよう。
いっそ、名簿なんてはじめから存在しなかったことにしてもかまわない。
さらに言えば、「桜を見る会」自体、開催されたのかどうか疑わしいわけだし、桜にしたところで、そもそも咲いていなかったのかもしれない。要するに、すべては証明不能で、誰も真実にはたどりつけない……というこのポイントこそが、われわれが置かれているありのままの現状なわけだ。ここまではよい。この線までは譲ろう。よろしい。私たちの負けだ。われわれは狂っている……って……いや、間違いだ。取り消す。悪かった。ちょっと言い過ぎた。大丈夫。オレは狂っていない……私は何を言っているのだろう。
とにかく、確実に言えるのは、私たちが、記録をないがしろにし、データを消去破棄破壊改ざんする動作を繰り返したあげくの果てに、どうやら言葉というかけがえのないコミュニケーション・ツールを毀損してしまったことだ。だから私は正確な文を書くことができない。とても困っている。
2年半前に書いた原稿の中で、私は、自分たちが、自身の足跡であり人生そのものでもある血の出るようなデータを消去し、改ざんしてしまったことの報いを受けるであろうことを予言した。
そして、その予言は、現在、もののみごとに的中している。
具体的に言えば、私たちは、データを軽んじたことの報いとして、マトモな言葉を喪失しはじめている。
菅義偉官房長官は4日午前の記者会見で、今年4月に開かれた首相主催の「桜を見る会」を巡り、招待者名簿の電子データを内閣府が5月上旬に削除した後も一定期間、外部媒体に残っていたバックアップデータについて、「行政文書に該当しない」との見解を示した。
意味がわかるだろうか?
正真正銘の行政文書たる名簿データのデジタルな複製であるバックアップデータがまったく同一のデータでありながらそれでもなお同じ行政文書でないというこの官房長官の狂った言明は、普通に聞く限りでは、バックアップの意義そのものをアタマから否定する言い草としか解釈のしようがない。
そもそも、「バックアップデータ」とは、原本のデータが誤って消去されたり、何らかの理由で破壊されたりして読めなくなる事態に備えて用意しておく「非常用のコピー」を指す言葉だ。
とすれば、バックアップデータは、今回のような原本のデータが消去されてしまったケースでこそ活躍しなければならないはずのものだ。
ところが、菅官房長官は、元データを廃棄した後、端末にバックアップデータが残っていたにもかかわらず、その提出を拒絶している。しかも、データの提供を拒絶した理由を「バックアップデータは行政文書ではない」からだという理路で説明している。
なんというのか、
「売れない占師は売れない自分を占えなかったから売れない」
的な、どうにもスジの悪い詭弁のにおい以外のナニモノをも感じることができない。
菅さんは「バックアップ」の意味をなんと考えているのだろうか。
非常時をバックアップ(支える)するためではないのか?
たとえばの話、原子力発電所にある「バックアップ電源」は、何らかの理由(津波とか)によって、原発の冷却水を冷やす電源が失われた場合に備えて、自動的に発電して原発を冷却するための非常用電源なのだが、このバックアップ電源を「公式の電源ではない」ってな理由で無効化してしまったら、非常の際、冷却されない原子炉は、そのままメルトダウンするほかにどうしようもない。菅さんはそれでもかまわないというのだろうか。
思うに、官房長官の不可解なステートメントを理解するためには、手順を踏まなければならない。
以下、順を追って説明する。
- (1) 原本の名簿データは、紙、電子データともに、5月上旬の時点で削除されている。
- (2) 外部の端末に残っていると思われていたバックアップデータについては、5月21日の時点で内閣府の幹部が、「破棄した」と答弁している。
- (3) (1)および(2)によって、政府は、野党からの名簿データ提出の要求を拒絶した。
- (4) ところが、バックアップデータは、5月21日以降も残っていたことが判明した。
- (5) (4)によって、(2)「虚偽答弁」になるはずなのだが、それはともかくとして、(4)の前提に立つなら、5月21日の時点で、政府が野党からの名簿データ提出の要求を拒絶していた理由が成立しなくなる。
- (6) (3)を正当化するために、あらためてバックアップデータが(国会議員の要求に従って政府が提出を義務付けられている)行政文書に当たらないという理屈が発明された。
ということになる。
なんだか19世紀のダメな小説家が書いたバカな寓話みたいな話だ。
このほかにも、菅官房長官は、
「『反社会的勢力』は様々な場面で使われ、定義は一義的に定まっているわけではないと承知しています」
などという、正気を疑わしめるような発言を漏らしている。
これもひどい。
仮に、菅官房長官のおっしゃる通りに「反社会的勢力」が、一義的に定義できない曖昧な存在なのだとしたら、暴対法のもと、警察から「反社」との取引や交際の禁止を厳しく求められている一般企業は、いったい何を基準に自分たちの行動をいましめたらよいというのだろうか。
あまりにもばかばかしい。
12月4日放送の「NEWS23」(JNN系)は、内閣府の幹部によるさらに信じられない発言を紹介している。
これは、マジでひどい。
日本語が死んだ日として、国民の祝日に推薦してもよいくらいだ。
発言は「桜を見る会」のための野党によるヒアリングを収録したVTRの中に収録されている。
11月29日のヒアリングでは、今井雅人議員の
「担当者に(招待番号の)60から63の違いを確認してもらえませんか?」
という要求に対して、内閣府酒田元洋官房総務課長が
「承知しました」
と答えている。ところが、このヒアリングを受けた12月3日の会合では、
内閣府:「内閣府においてこの情報は保有していない」
議員:「その時の担当者に確認してきて下さいっていいましたよね?」
酒田総務課長:「当時の担当者が特定できるということは申し上げたが、確認をするというところまで確約したかというと記憶にございません」
議員:「は?」
酒田総務課長:「“わかりました”というのはそういう趣旨は理解しましたが、“必ず確認してきます”と承諾したということではありません」
という話になる。
より詳しいやりとりは、以下のリンクの記事に詳しい。
この酒田某というお役人の言い分は、自分の言った
「承知しました」
は
"I understand"
の意味で発した言葉であって、
"Yes,I will"
ではないということなのだろう。
構造としては、
《「はい」は、単なる相槌であって、承諾を意味する返答ではありません》という、昔からあるよくある詐欺師の言い草と同じだ。
政府の中枢にいる人間が、こういう理屈を振り回すようになってしまった私たちの国は、この2年半の間に、一歩も前に進んでいないどころか、距離にして2キロメートルほど後ろに下がっている。
それもこれも、みんなしてよってたかって、自分たちの国の言葉を壊してしまったからだ。
適切な言葉がみつからない。
とりあえず、
「NO」
とだけ言っておく。
(文・イラスト/小田嶋 隆)
小田嶋隆×岡康道×清野由美のゆるっと鼎談
「人生の諸問題」、ついに弊社から初の書籍化です!
「最近も、『よっ、若手』って言われたんだけど、俺、もう60なんだよね……」
「人間ってさ、50歳を超えたらもう、『半分うつ』だと思った方がいいんだよ」
「令和」の時代に、「昭和」生まれのおじさんたちがなんとなく抱える「置き去り」感。キャリアを重ね、成功も失敗もしてきた自分の大切な人生が、「実はたいしたことがなかった」と思えたり、「将来になにか支えが欲しい」と、痛切に思う。
でも、焦ってはいけません。
不安の正体は何なのか、それを知ることが先決です。
それには、気心の知れた友人と対話することが一番。
「ア・ピース・オブ・警句」連載中の人気コラムニスト、小田嶋隆。電通を飛び出して広告クリエイティブ企画会社「TUGBOAT(タグボート)」を作ったクリエイティブディレクター、岡康道。二人は高校の同級生です。
同じ時代を過ごし、人生にとって最も苦しい「五十路」を越えてきた人生の達人二人と、切れ者女子ジャーナリスト、清野由美による愛のツッコミ。三人の会話は、懐かしのテレビ番組や音楽、学生時代のおバカな思い出などを切り口に、いつの間にか人生の諸問題の深淵に迫ります。絵本『築地市場』で第63回産経児童出版文化賞大賞を受賞した、モリナガ・ヨウ氏のイラストも楽しい。
眠れない夜に。
めんどうな本を読みたくない時に。
なんとなく人寂しさを感じた時に。
この本をどこからでも開いてください。自分も4人目の参加者としてクスクス笑ううちに「五十代をしなやかに乗り越えて、六十代を迎える」コツが、問わず語りに見えてきます。
あなたと越えたい、五十路越え。
五十路真っ最中の担当編集Yが自信を持ってお送りいたします。
この記事はシリーズ「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。
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