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 われわれは、共産党の議員さんがあらためて指摘するまで、「桜を見る会」の問題をまるっきり看過していた。この点は、深く反省せねばならない。

 もっとも、問題点を見過ごしていたのは、宴会を主催していた人々や無邪気に参加していた面々にしても同じことで、なればこそ彼らは、今回の事態に当たって大いに脇の甘さを露呈している。具体的には、後援会の名前を堂々と掲げた観光バスを連ねて会場に堂々と参集し、また、少なからぬ数の政治家が、当日の会場で撮影した芸能人や支持者との記念写真を無警戒にブログやSNSにアップしていた。

 彼らはバレることを恐れていなかった。

 というのも、自分たちがバレて困ることをしているという自覚すら欠いていたからだ。

 このことは特筆大書しておきたい。

 われわれの国では、政治家が自分の支持者を饗応するに当たって税金を使うことが、さして問題視されていない。それどころか、その種の力こそが「政治力」であると考える人たちが、この国を動かしているのかもしれない。

 だとすると、われわれの国がふつうの民主主義国として再出発する未来は果てしなく遠いのだろう。

 じっさい、後援会の関係者を自身の裁量で招待者名簿に書き加えた政治家も、その名簿を丸呑みで承認した官僚も、後援会の窓口を通じて宴会への参加を申し込んだ政治家の支持者も、大量の「素人」を含んだ当日の新宿御苑の映像を「セレブたちの宴」として全国に向けて配信していたメディアの人間たちも、誰一人として、あの宴会の怪しさとうさんくささに気づいていなかった。

 つまり、わたくしどもふつうの日本国民は、どうやらああいうこと(表向きは「各界の功労者」を招待することになっている宴会が、与党政治家の後援会の観光ツアー先になっていたり、政府の名において主催されるイベントへ参加する権利の分配権を特定の政党が独占したりしていることなどなど)を「いけないこと」「アンフェアな行為」としてとらえる感受性を、天然自然の天性として備えていないのだ。

 わたしたちは、どうやら、特権を帯びた人間がその特権をかさにえこひいきを発動することや、特定の政治家を支持する人間が見返りを求めることを「ごく自然な」「人として当然の」態度だと思っている。それどころか、われわれは、莫大な資産を持つ人間が自分の周囲にいる人間に金品をばらまくことや、人事権を握った人間が、自分の好みの人間が有利になるべく取り計らうことを「器の大きさ」ないしは「度量」と見なす感覚さえ抱いている。

 してみると、このたびの「花見の会」をめぐる一連の経緯は、現政権の体質を露見させた意味で、結果として、大変に出来の良い試金石であった以上に、われら日本人に自分たちの国民性の弱点を思い知らせる絶好の教訓話であったのかもしれない。

 問題発覚に至るまで、招待客の選定基準が恣意的である点を指摘したり反省したりした関係者が、一人として見当たらなかったのもさることながら、安倍首相をはじめとする自民党の主だったメンバーが、この点が問題であるとすら認識していなかったことも実に興味深い。

 つまり
 「招待客をオレたちの胸三寸で選ぶことのどこが不正だというのか」

 というのが、彼らの正直な胸の内であったわけだ。

 もう少し噛み砕いて言えば、現政権の中枢を占めている彼らは
 「だって、政府主催の宴会なんだから、その招待客を政府の重鎮でもある自分たちが選んでいけないという法があるのか?」

 と、おそろしくも無邪気に、そう考えていたようなのだ。

 なんというのか、こういう雑なところがないとあの党の議員はつとまらないのかもしれない。というよりも、自民党政治の真骨頂は、権益と責任の区別をあえて曖昧にしておくところにあるのだろう。