その意味で、アートに「効能」や「役割」を求める人たちが繰り返し持ち出す「個々のアートが、個々の作品として社会に貢献すべきだ」というのはまさに本末転倒の主張なのであって、時には社会に対して挑戦的であったり否定的であったりする内容を含むからこそ、アートは社会への批評的な位置を確保できているというふうに考えなければならない。

 またしても、わかりにくい話をしている。

 これは、美術館に通う習慣を持っている人ならある程度は共有している感覚だと思うのだが、あるタイプのアート作品は、私たちが世界に対峙する時の世界の見方に微妙な「揺らぎ」をもたらす。

 どの作品が、誰のどんな感覚に響くのかは、作品に直面してみないとわからないし、実際に直面してその「揺らぎ」を実感してみたところで、その感覚を言葉に変換して他人に伝えることは、いま私自身がやろうとして失敗しているのをご覧になればわかる通り、ほとんど不可能に近い。

 しかし、アートは、それに直面した人間の脳内に、様々な波紋をもたらす。そして、鑑賞する人間をあてどない思考の迷路にいざなうことによって、社会に貢献している。少なくとも私はそう思っている。

 もっとも、ここで言っているアートが社会に貢献しているというお話は、理屈の上での設定に過ぎない。しかもその理屈自体、私がそう思っているというだけの話で、やや説得力には欠ける。その点は自覚している。

 こんな話をしている私にしてからが、美術館に足を運ぶようになったのは、この10年ほどのことだ。

 40歳になる手前まで、現代アートには、むしろ敵意を持っていたと言って良い。お恥ずかしい話だが、けっこうなおっさんの年ごろになるまで、私は、理解を絶したもののすべてを敵認定して攻撃しにかかる人間だったのである。

 であるから、例えばオペラなどもごく自然に敵視していた。

 人前であからさまに罵倒するようなことはしなかったものの、なにかの事情でオペラの映像を見なければならない機会に遭遇すると、自分が笑い出したり怒り出したりしないか心配で、終始困惑していたものだった。

 それが、ある日、きっかけは忘れてしまったのだが、なにかの拍子で
「ああ、これは素晴らしいものだ」

 ということを電撃的に察知して、以来、金切り声にイラつくこともなくなった。不思議なことだ。であるから、この20年ほどは、オペラの中継を見ても、大げさな歌唱に笑いをこらえる必要を感じなくなった。むしろ楽しんでいる。たぶん、若かった頃の私は、あまりにもわからなくて混乱していただけだったのだろう。

 アートに関しても同様だ。

 知り合いが関わっている美術展や、義理で出かける作品展を訪れる経験を積み重ねるうちに、いつしか作品と対峙する間合いのようなものを身につけたのだと思っている。すべての美術館のあらゆる展示に感動するわけではないし、芸術だのアートだのの本質をつかんだとかとらえたとか、必ずしもそういう大仰な話ではない。

 それでも、今回の「あいトリ」をめぐる顛末に心を痛める程度には、アートの味方でいるつもりだ。