そういうものというのは、つまり、観る者の心をざわつかせるものだということだ。

 「へえ、アートって、人の心をざわつかせるものなのか。初めて聞く定義だな」

 と、嘲笑している読者が何人かいるはずだ。

 私のような門外漢が、ここで「アート」なるものについて個人的な定義を振り回してみせたところでたいした意味はないし、またそんなことをするつもりもない。というよりも、こういう場所では、いっそ「アート」とは、そもそも「定義できないもの」だとでも定義しておくのが正しいはずだ。

 ともあれ、アートは、必ずしも美しいものではない。

 と、こんな調子で
「アートは必ずしも◯◯なものではない」

 という否定命題を200個ほど並べてみれば、おそらく、事態はよりはっきりとしてくるはずだが、だからといって、それでアートの定義が完了するわけではない。

 これが商品なら話は簡単だ。

 顧客に愛されない商品は市場から追放される。

 美しくない商品は、思惑通りの売上高を達成することができない。

 人々を不快な気持ちにする商品は店頭から排除される。

 であるから、仮に「商品販売の自由」といったようなものがあったのだとして、そんなものは市場の要請と顧客の需要によって全否定されてしまうだけの話でもある。市場というのはそういうものだし、商品もまた実にシンプルな存在だ。

 であるから、例えば商業美術品は、アートであることよりも商品であることの運命に従う。

 評価されなければ売れないし、画商が扱いたがらなければ市場にさえ参入できない。

 それはそれでかまわない。

 しかしアートは違う。アートは商品ではない。

 「あいトレ」に展示されているアート作品について、少なからぬ人たちが誤解しているのはこの点だ。

 というよりも、商品を評価する以外の目でものを見ることができない人たちが多数派であることが、結局のところ、今回の騒動の正体だったということだ。

 ともあれ、アートは商品ではない。

 ここのあたりの区別は、ちょっと微妙ではあるのだが、私の個人的な解釈では、商品として制作されていないアートは、アートとしての役割を担っていると考えている。

 アートは、アートであることによって、社会に貢献しているというふうに言い換えても良い。

 どういうことなのかというと、つまり、個々の作品が個別に社会に貢献しているということではなくて、この世界に「アート」と呼ばれる分野の芸術作品があるというそのこと自体が、世界を相対化する意味で、社会に貢献しているということだ。