「頻繁な交流がないから差別心が一般化しない」

 という認識が、まずどうかしている。

 交流が希薄な分、差別に遭遇したり差別を発動したりしてしまう機会が少ないということはあるだろう。しかし、交流が希薄な分、当然、差別に対して無知であったり、自分たちの差別意識に無頓着になったりする傾向は高まる。というのも、差別対象との接触が希薄なら、差別構造の学習機会もまた希薄になるからだ。

 さらに筆者は、
「だから、Aマッソの今回の発言も、彼女たちの内なる差別心の発露ではないと考えるのが自然だ。つまり、これは事件ではなく事故である。」

 と、これまたスジの悪い擁護論を展開している。

 まるで違う。差別は、差別者が自分で差別を意識していない時にこそむしろ野放図に表現されるというふうに考えなければならない。

 こんな話は、差別論の「いろは」に属する話なので、今さら私がえらそうな顔で説教を垂れるのは気が引けるくらいなものなのだが、この程度のことも承知していない人間が、商業メディアに寄稿していた事実には、やはり失望を感じる。

 もっとも、百歩譲って読んであげれば、ラリー遠田氏の擁護のキモは、せいぜい
 「そんなに悪気はなかったのだよ。わかってあげてくれ」

 といったあたりあるのだと思うし、その点について言えば彼の言う通りではある。

 実際、Aマッソの二人には、「悪気」はなかったのだと思う。

 もちろん、大坂なおみさんを攻撃したり中傷したりする意図も持っていなかったはずだ。

 ただ、問題は、彼女たちの側の「つもり」ではない。

 問題はむしろ、公的な場所で発言するパブリックな立場の人間が、何の悪気もなく無邪気に発言した言葉の中に、凶悪かつ有害な差別意識が露呈してしまっている「構造」の中にあるわけで、つまり、今回のこの事案は、お笑いという、芸人と観客の間でやりとりされているコール&レスポンスの内部に、その「差別構造」ないしは「差別意識」が、前提として強固に共有されていたことの深刻さにこそ、私たちは、目を向けなければならないのだ。

 結局のところ、芸人も、事務所も、観客も、多くのメディア関係者や舞台人たちも、ここで展開されていた「差別」の意味を理解していないわけだ。

 だからこそ、東洋経済オンラインの記事の中で筆者のバイエ・マクニール氏が指摘しているように

 彼らは、大坂なおみさん個人に謝罪してそれでよしとする、見当はずれな対応を取っている。

 あの漫才ネタの中で発信された差別は、大坂なおみという特定個人に向けられた個別の攻撃だったわけではない。無論、彼女自身も傷ついたとは思うが、差別の矢は、「黒人であること」が意味する「黒人性」「黒い肌」一般に向けて広大かつ全般的に発信されている。

 ということは、アフリカ系にルーツを持つ人々や、インド亜大陸、ミクロネシア、メラネシア、その他全体として「濃い色の肌」を持つ人々は、あの漫才の中に出てきた「漂白剤」という言葉に、いたく感情をかき乱されたに違いない。そう考えなければならない。とすれば、謝罪すべき対象は、すべてのカギカッコつきの「黒人」ということになる。これは、彼女たちが考えているほど簡単な話ではないし、些細な「事故」でもないのだ。

 「デブ」を笑ったり相方の「ハゲっぷり」をネタにして笑いを取ったりすることについても同様だ。笑われているのは、特定のデブではないし、個人としてのハゲでもない。デブを嘲笑するネタは、全世界の肥満傾向にある人間ならびに、体重超過を気に病んでいる人間をあからさまに侮辱攻撃するものだし、ハゲのハゲっぷりを指摘するところから生まれる笑いは、全世界のハゲた頭の内部に確実に届いている。