何より問題なのは、芸人たち本人、並びにそのネタで笑っていた観客や、舞台を取り仕切っていた人々も含めて、関係者が、いずれも「差別」を「差別」として特段に意識していない点だ。
そして、この種の問題が起こるたびに毎度繰り返される
「自分たちが差別を意識していないのだからこれは差別ではない」
という謎の理屈が、またしても様々な立場の人々の口からいとも無邪気に発信されている次第だ。
補って言えば、
「自分たちは、差別の意図があってこの言葉を使ったわけではない」
「特定の誰かを攻撃したり中傷したりするために差別用語を使ったのではない」
「ただ、自分は、この言葉が差別用語であるという世間の基準について無知だっただけだ」
「そういう意味で空気が読めていなかった点は反省しなければならない」
「技術が劣っていたと言われればそれも認める」
「ただ、差別はしていない」
という感じだろうか。
実際、Aマッソの件でも、最も早い時期に登場した解説記事は、朝日新聞出版が提供しているウェブメディアに掲載された、ラリー遠田氏の手になる
「Aマッソの発言に相次ぐ批判 背景にあるのは『芸人差別』か」
という文章だった。
ちなみに、この記事は、掲載直後から批判が殺到したため、「弊社として不適切な表現を掲載したことは誤りでした。」という「朝日新聞出版AERA dot.編集部」名義の謝罪文を掲載した上で、すでに削除されている。
余計なことかもしれないが、私は、朝日新聞出版AERA dot.編集部が、記事を削除した判断に不満を持っている。というのも、当該の記事のどの部分にどんな不適切さがあったのかを検証し、後日の教訓とするためには、記事を残しておくべきだと考えるからだ。あいまいなお詫びの言葉を残して、文書をまるごと亡きものにしてしまう態度は、「隠蔽」「逃亡」と言われても仕方がないものだ。さらに言えば、あいちトリエンナーレへの補助金の不支出を決断した会議の議事録が「無い」旨を伝えてきた文化庁の態度とそんなに変わらないと申し上げてもよい。
ひとたび作成された資料、文書、記事は可能な限り保管・公開されるべきだ。まして、言論機関が一度は一般に向けて公開した記事であるのなら、誤記や不適切表現に注記を施すなどの処置をした上で、自分たちの過誤の記録として公開を続けるのがメディアとしての義務であるはずだ。
ちなみに、当該の記事は、元のサイトからは消滅しているが、ニュースアプリをたどっていくとまだ記事が残っている場合がある。いつまでリンクが生きているかは分からないが、とりあえずまだ読めるリンク先として以下のURLを紹介しておく。
これを読むと、筆者のラリー遠田氏は
「―略― 率直に言って、黒人差別とは多くの日本人にとってまだそれほど身近なテーマではない。日本を訪れる外国人の数は年々増えているとはいえ、一部の大都市や観光地や黒人コミュニティーがある地域を除けば、日本人が日常で黒人と接する機会はそれほど多くはないだろう。
黒人差別が根深い社会問題となっているのは、アメリカをはじめとする欧米諸国である。そこではいまだに黒人に差別心を持っている人が存在している。もちろんその背景には奴隷制という負の歴史がある
だが、日本人の多くにはもともとそういう感覚がない。アメリカなどで白人のレイシストが持っているような本物の差別心を、黒人に対して抱いている日本人はめったにいないだろう。
だから、Aマッソの今回の発言も、彼女たちの内なる差別心の発露ではないと考えるのが自然だ。つまり、これは事件ではなく事故である。差別心から発した本物の差別発言ではなく、無知や誤解からたまたま生じた差別発言なのだ。―略―」
と、見事に見当はずれな理屈を展開している。
ひどい誤解だ。
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