なんというのか、
「時代が進めば国民感情や義理人情のみならず、倫理道徳や人権感覚も変化する。であるからして、その変化にともなって、舞台上でウケるネタも変わる」

 と、つい何行か前に自分で書いたその一文の指し示している内容が、必ずしも一様ではなくなっている状況を分析しないと、本当のところは結局分からないということだ。

 コンプライアンスは、確かに厳しくなっている。PCの基準も20年前とは比較にならない。

 で、その状況を受けて、お笑いファンがより政治的に正しくてコンプライアンスを順守したセーフティーなお笑いを求めているのかというと、まるでそんなことはない。そんなヌルいネタを求めているのは、炎上にあたってスポンサーに謝罪しなければならない立場にいるメディア企業内部の大卒の社員だけだ。観客も芸人も、もっと「ヤバい」「ハラハラさせるような」ネタを渇望している。

 今回の一連の騒動が、地上波のテレビ番組のような規制の厳しい場所で発生したものではなくて、いずれもクローズドなライブや、ネット配信のコンテンツの内部で展開されていたネタであることからもうかがえる通り、よりビビッドでトンがった自由な笑いを求める観客(芸人も)は、すでにテレビのようなマスメディアを見限っている。

 テレビは要するにヌルくて間抜けな、顔のない視聴者に向けて、自分たちの知名度を広告する媒体にすぎないのであるからして、ああいうステージにはちいちいぱっぱの手加減したネタをぶつけておけば十分だ。自分たちの本当の勝負の場所は、ものの分かった客だけが集まる小屋であり、観客と至近距離で勝負できる少人数の舞台だ……という感覚が、おそらくは、意識の高い芸人の中に育ちつつあるのだと思う。

 その感覚自体は否定しない。というよりも、テレビ桟敷の無料入場者を無視して、自腹でチケットを買ってくれる客に向けたナマのライブを足場に芸を磨こうとする態度は、表現に関わる人間の態度として立派でさえある。

 ただ、こうした芸人の「覚悟」と、観客の「需要」を突き詰めた結果出てきたものが、結局のところ「差別」だったというのが、この話のどうにも寂しいところで、だからこそ、私たちは、このたびの一連の騒動を、うまく消化できずにいるのだと思う。

 思うに、この9月に起こったいくつかの炎上事案は、メディアの側の問題ではない。コンプライアンスやPCに付随する問題だとも考えていない。私個人は、大げさに言えばだが、これらは、この何十年かにわたってうちの国の大衆文化の中核を担ってきた「お笑い」という大衆文化運動がいよいよ最終的な死を迎えるにあたって発信している、断末魔の叫びであるというふうに受け止めている。

 炎上そのものは、芸人たちが「地上波では無理だ」「テレビにはかけられない」と思っている「トンがったネタ」が、彼ら自身の思惑とは別の場所で、インターネット動画として全世界に配信された結果としてもたらされたものだ。

 ただ、これは、メディアの側の仕組みの話で、炎上の真の原因ではない。

 炎上を招いた真の理由は、ごく単純に言って、ネタの差別性にある。

 そして、芸人たちがその「差別性」そのものを、「トンがった」「勝負している」「ギリギリの」「リミッター外した」「本質突いた」「最先端の」笑いだと思い込んでいて、観客の方もまた、芸人が舞台から投げかけてくるその物騒で意表を突く危険で残酷な言葉たちを「テレビではとても観られない」「ホンネの」「ぶっちゃけの」「本物の」「リアルな」「オブラートで包んでいない」「正真正銘の」「コンテンポラリーでラディカルな」ネタだと思って、そのナマのスリルが横溢するヒリヒリするようなパフォーマンスに直接触れることのできた自分たちの幸運を祝福している……という、おおよそこんな調子の勘違いの構造の中で、「差別」ネタは披露されたわけだ。

 私のようなもはやお笑いファンを名乗れない立場の人間が、いくつかのお笑いライブで起こった出来事を、3歩ほど離れた地点から観察していて感じるのは、一連の「差別」は、偶然でもなければ事故でもなくて、「構造」としてそこにあらかじめ固定されていたものだということだ。そして、「構造」である以上、それは今でも同じ場所に同じ形で残存しているはずなのだ。