「説明が不十分だった」
 みたいな難癖をつけるだけのことで、補助金をカットできるということは、
「十分な説明」
 なる動作が利権化するということでもある。

 今回、騒動の発火点となった「表現の不自由展」は、「あいトリ」という大きな枠組みの芸術祭のうちのほんの一部(←予算規模で400万円程度といわれている)に過ぎない。

 してみると、7800万円の補助金が支給されるはずだった「あいトリ」は、そのうちの400万円ほどの規模で開催されるはずだった「表現の不自由展」をめぐるトラブルのおかげで、すべての補助金を止められたという話になる。

 こんな前例ができた以上、この先、どこの自治体であれ、あるいは私企業や財団法人であれ、多少とも「危ない」あるいは「議論を呼びそうな」作品の展示には踏み切れなくなる。

 作品をつくる芸術家だって、自分の作品の反響が、美術展なり展覧会なりのイベントまるごとが中止なり補助金カットに追い込む可能性を持っていることを考えたら、うっかり「刺激的な」ないしは「挑戦的な」作風にはチャレンジしにくくなる。

 別の角度から見れば、今回の事例を踏まえて、気に入らない作品を展示していたり、政治的に相容れない立場のクリエーターが関与している美術展を中止に追い込むためには、とにかく数をたのんでクレームをつけたり、会場の周辺で騒ぎを起こしたりすればよいということになる。そうすれば、トラブルを嫌う主催者は企画を投げ出すかもしれないし、文化庁は企画を投げ出したことについての説明が不十分てなことで、補助金を引き上げるかもしれない。

 かくして、「あいトリ」をめぐる騒動は、画家や彫刻家をはじめとする表現者全般の存立基盤をあっと言う間に脆弱化し、文化庁の利権を野放図に拡大したのみならずクレーマーの無敵化という副作用を招きつつ、さらなる言論弾圧に向けての道筋を明らかにしている。

 私自身の話をすれば、これまで、自分が書いた原稿に関して、用語の使い方や主題の選び方について修正を求められた経験は、全部合わせればおそらく20回ほどある。

 そのうちの10回ほどは、新聞社への寄稿で、単に平易な言い回しを求められたものだ。

 残りの10回のうちの8回までは、とある同じ雑誌の同じ編集長に要求された文字通りの言葉狩りだった。

 その編集長の不可思議な要求に対しては、毎回必ず
「え? どうしてこんな言葉がNGなんですか?」
「考えすぎじゃないですか?」

 と抵抗したのだが、結局は押し切られた。

 その当時、まだ30代だった私より5年ほど年長だったに過ぎないその若い編集長(してみると、彼は出世が早かった組なのだな)は、とにかく、問題になりそうな言葉はすべてカットしにかかる、まれに見る「チキン」だった。