ちなみに付け加えれば、私は、この、「個人の感想を軽視する態度」が、21世紀に入ってからこっちの時代思潮と呼んでも過言ではない考え方なのだと思っている。

 「ファクトに基づかない記事は無価値だ」
 「取材をしていない書き手による文章は女優さんのエッセーと選ぶところのないものだ」

 という感じの、漫画の中に出てくるジャーナリズム学校の先生が言いそうなセリフを、なぜなのかSNSに蝟集している素人が二言目には繰り返すのが、この20年ほどのネット上での論争でのおなじみの展開になっている。

 してみると、私のような取材をしない書き手は
 「アタマの中で言葉をこねくりまわしているだけのポエマーもどき」

 てな調子の評価に甘んじなければならないことになる。

 これは、なかなか辛い境涯だ。

 なぜというに、さきほども申し上げた通り、この指摘は、半分までは図星でもあるからだ。

 ただ、この半月ほどの間、私が、図星を突かれてすっかりヘコんでいたのかというと、そうとばかりも言えない。

 図星を突かれた残りの半分で、私は、「偉いコラムニスト様」というその言い方の不当さへの憤りを自分の中で蒸し返しながらあれこれ考え込んでいた。

 私は、自分を偉い人間だと思っているから、取材に出かけることを忌避しているのではない。

 自分が特別な才能に恵まれた類いまれな書き手であるという自覚のゆえに、取材抜きの素朴な感想を書き起こして事足れりとしているのでもない。

 私は自分を「偉い」ビッグネームだと考えたことは一度もない。むしろ、一介の売文業者にすぎないと思っている。無論「コラムニスト様」と呼ばれるに足る巨大な報酬を得ているわけでもない。

 私の側から言わせてもらえるなら、私は、あるタイプの書き手がなにかにつけて持ち出す
 「自分は取材しないと一行も書けないライターなので……」

 という、一見謙虚に構えたセリフの背後にこそ、強い自負の存在を感じる。

 もっと言えば、
 「取材もせずに文章を書いているあなたは、よほど自分の中にある才能やら知識やら技巧に自信がおありなのでしょうね」

 という感じの当てこすりの響きを聴き取ることさえある。