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 8月9日更新分の記事をアップして以来、当欄に原稿を書くのはおよそ1カ月ぶりだ。

 その間は、形式上、夏休みをいただいたことになっている。

 もっとも、「夏休み」というのは言葉のうえだけの話で、私自身は、必ずしものんびりしていたのではない。

 むしろ、物理的に執筆が困難な環境の中で、もがいていたと言った方が正確だろう。

 苦しんだことで何かを達成したわけではないし、特段に成長したこともなかったのだが、とにかく私は苦しんでいた。

 「えっ? 8月中もいつもと変わらずにツイッターを更新してましたよね?」
 「ああいう頻度でツイートできていたのだから、原稿だって書けたんじゃないですか?」

 というのは、一見もっともなご指摘に聞こえる。というよりも、ほとんど図星ですらある。

 しかし、実際に私の立場で、このセリフを聞かされてみればわかることだが、ツイッターと有料原稿は、読む側にとってどう見えるのであれ、書く人間の側の立場からすると、まるで性質の違うものだ。

 ツイッターは、あれは、140文字で全世界を切って捨てる、一種の捨て台詞だ。
 それゆえ、準備も推敲も要さない。

 あれを書いている人間は、一息で吐き出すセリフを、気晴らしのつもりで放り投げている。
 多少言い回しの工夫に苦労する部分があるにしても、その苦労もまた気晴らしの一部だったりする。

 というのも、文章を書くことを好む人間は、技巧的な努力(原稿執筆におけるテクニカルな部分での苦労)に嗜癖しているからだ。だから、書き方を工夫するための苦心には、ほとんどまったく辛さを感じない。まあ、ボールを蹴っている子供と一緒だということです。

 引き比べて、ヒトサマから原稿料をいただいて、不特定多数の読者のために書く原稿には、相応の準備が要る。手間もかかる。なにより責任の大きさがまるで違う。

 この場を借りて、ぜひ強調しておきたいのは、原稿を書く人間を苦しめるものが、執筆前の取材や、執筆中の技巧上の煩悶ではなくて、なにより記事公開後に発生する責任の面倒臭さだということだ。

 責任さえなければ、執筆ほど楽しい作業はないと申し上げてもよい。

 商業的なメディアに署名原稿を提供する書き手は、事実誤認や誤記があれば、すぐさま謝罪のうえ訂正しなければならない。誰かの名誉を毀損したり、見も知らぬ他人の尊厳を傷つけたりする文章を公開してしまったケースでは、それなりの責任を取る必要が出てくる。

 それでも、時には、読者のうちに一定の割合を占めるセンシティブな人々の感情を傷つけるリスクを、あえて冒さなければならない場面もある。

 そういう時は、詫びる場合でも、謝罪しないケースでも、どっちにしても書き手が苦しむ選択肢を避けることはできない。