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「その日、私は、7月の歌舞伎町の必ずしも清潔一辺倒とはいえない埃っぽい風を疲れた顔の全面に受けながら、職安通りを東に向かって歩いていた」
「それ、単に『風』じゃダメですか?」
「っていうか、風自体不要だと思います」
「『私は職安通りを歩いていた』で十分ですね」
「主語も削った方が引き締まりますね」

 この話をこれ以上深めるのは悪趣味かもしれないので、やめておく。

 話を元に戻す。

 メディアによる検閲は、いまのところ、「思想」や「表現」そのものには及んでいない。

 ただ、「難解な用語」を平易な言葉に書き改めたり、「重複表現」を圧縮整理せんとしたりする標準活動は、商業メディアの中では、常に堂々と正面突破で敢行されている。

 で、私が言いたいのは、そういう「わかりやすさのための改変」を続けているうちに、いつしか大切なものを見失ってしまうケースがあるのではなかろうか、ということだ。
 そんなわけなので、今回は、「わかりやすさ」にばかり心を砕くようになっているうちの国のメディアが見失っているかもしれないあれこれについて書くことにする。

 わかりにくい話になるはずだが、全員にわかってもらおうとは思っていない。

 わからない人には永遠にわからない。

 原稿を書く人間は、読解力の低い人間に安易に歩み寄ってはいけない。

 テレビでは、もっと露骨に視聴者を舐めた編集が敢行される。

 制作側の自覚としては、「より広い視聴者層の理解をうながすべく」番組を制作しているということなのだろうが、見せられる側からすると、
「ほらよ。こういうのが好きなんだろ?」
「どうだ? おまえたちの大好物だぞ」

 てな調子で、餌を投げつけられている気分になる。

 たとえばの話、つい20年ほど前までは、局アナによる荘重なナレーションを背景に粛々と進行するのが当たり前だった紀行ものや大自然関連の番組が、昨今では、施設のご老人に小腰をかがめて話しかける介護士さんみたいな口調のアイドル・タレントによるリポートで騒がしく進行されるようになっている。それゆえ、私は、国産のその種の番組はもう10年以上見ていない。

 そんなこんなで、もののわかった視聴者は、テレビから離れる。

 これは、テレビ全体の視聴時間が減るというだけの話ではない。

 より以上に、テレビの前に座っている人間の品質が低下することを意味している。

 これは、当然だが、悪循環をもたらす。

「情報弱者向けに平易な番組を制作する」
 ↓
「志の高い視聴者が去って、視聴者の平均値が低下する」
 ↓
「さらに理解力の低い視聴者のためにさらに俗に砕いた番組を送出する」

 というふうにして、いつしかテレビの前の半径数メートルほどの空間は、ほかに時間のつぶしようを持っていない哀れな人々のための吹き溜まりみたいな場所になる。

 8月7日の午後3時過ぎ、自民党の小泉進次郎衆議院議員と、フリーアナウンサーの滝川クリステルさんが結婚報告をしたというニュースが流れてきた。第一報は、もっと早かったのかもしれない。いくつかの記事を読むと、民放各局のワイドショー番組は、2時過ぎから構成台本を差し替えて、このニュースのための特別編成を組んだようだ。