夏休み中の読者も多いと思うので、あまりむずかしくない話題を取り上げることにしよう。

 ……と、自分でこう書いてしまってからあらためて思うのが、こういう書き方は読者をバカにしている。大変によろしくない。

「こんな時期だからこのテの話題でお茶をにごしておこう」
「こういう媒体だから、この程度の解説で十分だろう」
「この感じの読者層だと、どうせこれ以上の説明はかえって混乱を招くことになるかな」

 という上から目線の先読みから書き始められるテキストは、多くの場合、ろくな結果を生まない。

 新聞社からの原稿依頼では、こういうことがよく起こる。

 「こういうこと」というのはつまり、「読者の読解力の限界をあらかじめ想定して、その範囲内におさまる原稿を要求される」みたいなことだ。

 初稿を送ると、
「14行目の『晦渋』という言葉なんですが、別の用語に言い換えることは可能でしょうか?」
 という電話がかかってきたりする。

「あれ? 晦渋だったですか?」

 というジョークはとりあえずスルーされる。

「……いや、ほとんどの読者はそのまま読解してくれると思うのですが、なにぶん、新聞は中学生からお年寄りまで大変に読者層の幅広い媒体ですので」
「……そうですか。では、『晦渋を極めた』のところは単に『むずかしかった』に差し替えてください」
「ありがとうございます」

 という感じのやりとりを通じて、文章のカドが取れることになる。

 より幅広い読者層にとって理解しやすい書き方に改められたわけなのだから、基本的には悪いことではないと思うのだが、書き手としては、角を矯められた犀が、豚に一歩近づいたみたいな気持ちになる。

 個人的な経験の範囲では、これまで、新聞の編集部とのやりとりの中で、政治的に偏向した見解や、差別的な言い回しを指摘されたり、それらを理由に記事の改変を要求されたりしたことはない。

 その種のあからさまな「検閲」は、いまのところまだ、わが国の活字メディアには及んでいないのだろう。

 ただし、
「難解な表現を平易に」
「錯綜した論理展開をシンプルに」
「重複した言い方をすっきりと」
 という感じで、表現を改めるべくやんわりと示唆される機会は、実は、珍しくない。

 これは、私の文体が、不必要にくだくだしかったり、同義語を執拗に羅列する悪い癖を含んでいたりして、それらが、平明かつ論理的であることを至上とする新聞の標準とは相容れないからなのだろう。

 その点は、自覚している。

 ただ、くどい表現をすっきりさせると、文章から「行間」や「余韻」が消えてしまうことが、ないわけでもないわけで、それゆえ、私は、書き直しを要求される度に、微妙に不機嫌になる。