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 が、現状を見るに、小学校の道徳教材の中で暗示される「ギセイ」の物語は、毎夏集中放送される甲子園球児の「青春残酷物語」を通じて、補強され、シンクロされ、具体化されている。

 われわれは、ギセイの物語を美しいと思うべく条件づけられている。

 目の肥えた野球ファンは、夏の甲子園大会が、エースピッチャーにとって過酷であるという程度のことは、十分に認識している。ただ、彼らは、同時に、夏の甲子園のグラウンド上で展開される一回性の魔法が「残酷だからこそ美しい」ということを、よく承知している人々でもある。

 つまり、暑くて、苦しくて、将来有望な投手の肘や肩を台無しにするかもしれない危険をはらんでいるからこそ、観客であるわれわれは、その運命の残酷さに心を打たれるわけで、逆に言えば、グラウンド上の子供たちが、快適な気象条件と穏当な日程の中で、のびのびと野球を楽しんでいるのだとしたら、そんな「ヌルい」コンテンツを、われら高校野球ファンはわざわざ観戦したいとは思わないということだ。

 こじつけだと思う人もあるだろうが、私は、道徳の教科書を制作している人々が「星野君の二塁打」を通じて現代の小学生に伝えようとしている精神は、今回の佐々木投手の登板回避をめぐる議論にも少なからぬ影響を与えていると思っている。

 というよりも、そもそものはじめから、佐々木投手の登板回避をめぐる話題は、投手の肘がどうしたとか、大会の日程がハチのアタマであるとかいった些末な話ではなくて、そのものズバリ、「犠牲」の物語なのである。

 類まれな才能が、美しい生贄として野球の神に捧げられなかったなりゆきを、残念に思っている人々が、たくさんいるからこそ、佐々木投手の話題は、いまだにくすぶり続けている、と、そういうふうに考えなければならない。

 大船渡高校の監督が佐々木投手の登板回避を決断して試合に敗れた週の日曜日、TBS系列が午前中に放送している「サンデーモーニング」という番組の中で、野球評論家の張本勲氏が、監督の判断に「喝」を入れたことが話題になった。

 番組の中で、張本氏は以下のように述べている。

 「最近のスポーツ界で私はこれが一番残念だと思いましたよ。32歳の監督で若いから非常に苦労したと思いますがね、絶対に投げさせるべきなんですよ」
 「けがを怖がったんじゃ、スポーツやめたほうがいいよ。みんな宿命なんだから、スポーツ選手は」
 「(佐々木の)将来を考えたら投げさせたほうがいいに決まってるじゃない。苦しいときの投球を体で覚えてね、それから大成したピッチャーはいくらでもいるんだから。楽させちゃダメですよ。スポーツ選手は」

 論評の言葉が見つからない。

 最新のスポーツ医学がもたらすところの知見によれば、とか、そういうことをここで繰り返しても仕方がなかろう。

 ただ、この場を借りて強調しておかなければならないのは、張本氏の主張は、素っ頓狂であるように見えて、あれはあれで、野球好きな日本人のど真ん中の感慨でもあるということだ。

 重要なのは、張本氏に限らず、多くのスポーツファンが「チームのために」「勝利のために」自らの青春を捧げることを美しい行為であると考える美意識を共有していることだ。

 肩がどうしたとか肘がどうしたというお話は、その「美意識」(←美しく「散る」若者の姿を見たいというわれら凡庸人の願望)を飾るスパイスであるに過ぎない。