全6175文字

 NHKのNEWS WEBが《トミー・ジョン手術 4割が高校生以下 野球指導者の意識改革を》
 という見出しで、こんな記事を配信している。

 なんでも、
《群馬県館林市にある慶友整形外科病院は「トミー・ジョン手術」を行う国内でも有数の病院で、これまでプロ野球選手を含めおよそ1200件の手術を行っています。

 このうち、10年以上にわたって600件以上の手術を行ってきた古島弘三医師が、担当した患者を分析したところ、高校生以下の子どもがおよそ4割を占め、中には小学生もいたことが分かりました。》

 ということらしい。

 なんといたましい話だ。

 わたしたちは、子供たちの肘をサカナに旨い酒を飲んでいる。

 さて、前置きが長くなった。

 私が本当に言いたいのは、ここから先の話だ。

 つまり、問題の本質は、大会日程の過酷さや、投手の肘への負担の大きさよりも、むしろその若者たちの負担や犠牲を「美しい」と思い込んでしまっているわれら日本人の美意識の異様さの中にあるはずだという主張を、私は、またしても蒸し返そうとしている次第なのだ。

 2018年の10月、プレジデントオンラインに、元文部科学省の官僚で、現在は映画評論家として活躍している寺脇研氏が、
《監督の"打つな"を無視した野球少年の末路
 上からの命令は「絶対」なのか》

 と題する記事を寄稿している。

 私は、今回の問題をめぐる議論を眺めていて、この記事を思い出さずにおれなかった。

 というのも、当初は佐々木投手を登板させることに関して
 「甲子園出場というかけがえのない舞台の大切さ」
 「有望な投手が故障する可能性の恐ろしさ」
 「大会日程の過酷さ」
 「球数制限の是非」

 といったあたりで沸騰していたはずの議論が、

 いつしか
 「全体のために尽くす心の大切さ」
 「高校生が野球を野球たらしめている自己犠牲の精神から学ぶ人生の真実」

 みたいな「道徳」ないしは「美意識」の話に移行していく流れを、ネット上の様々な場所でいくつも目撃せねばならなかったからだ。

 記事中で、寺脇氏は「星野君の二塁打」という道徳教材の中で称揚されている「ギセイの精神」について、
《「ギセイ」とわざわざ片仮名で書いたあたりに作者のわずかばかりの逡巡は匂うものの、戦争を反省し人権尊重をうたう日本国憲法が施行された直後に発表された作品とは思えない無神経さだ。

 こんなセリフを、そのまま現在の教科書に使っていいはずはない。すでに「犠牲バント」という言葉が消え、単に「バント」あるいは「送りバント」と呼ばれるようになって久しい現代において、「犠牲の精神」がなければ社会へ出てもダメだと決め付けるようなもの言いは時代錯誤だ。ちなみに、もう1社の教科書では「犠牲」の部分は使われていない。この話をこんな形で道徳の教科書に使うのは不適切ではないだろうか。》

 と書いている。

 同感だ。