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 毎年、この時期になると高校野球の話題を取り上げている気がしている。

 しかも、毎度同じような立場(具体的には「高校生の苦行を見物するのは悪趣味だぞ」的な上から目線での決めつけ)から苦言を並べ立てる趣旨の原稿を書いている自覚がある。

 読者の中には、オダジマが毎回繰り返し持ち出してくる甲子園関連記事に食傷している向きも少なくないはずだ。

「ああ、オダジマがまた高校野球にケチをつけている」
「きらいなら黙ってればいいのに」
「気に食わないコンテンツを無視できないのって、一種の病気だよな」
「うん。不幸にして不毛な不治の病だと思う」

 大筋において、私のイチャモンのつけ方がおとなげないことは、認めなければならない。

 にもかかわらず、自分の言いざまがくだくだしいことを承知の上で、それでも私は口をはさまずにいられない。

 困った性分だ。

 この問題(←毎夏、甲子園大会が開催されるたびに表面化することになっている、わたくしたち日本人の度し難い思い込み)を、私は看過することができない。

 なんとなれば、
 「無理をすることは美しい」
 「仮に頑張った結果が報われなくても、頑張ったことそのものに価値がある」
 「無理をした結果が悪い方向に転んだのだとしても、そんなことはたいした問題ではない。なにより大切なのは、若い人たちが無理を重ねたことを通じて、人間的に成長していくその過程なのだ」

 式の考え方と、その思想がもたらす「無理」によって成立している組織のあり方こそが、私の一生涯を通しての変わらぬ仮想敵であったからだ。

 しかも、その戦いに、今年もまた私は敗北しつつある。
 なんと残念ななりゆきであろうか。

 われら21世紀の日本人は、いまだにインパールの延長戦を戦い続けている。そして、その自分たちの全国民を挙げての愚かな敗北の物語を、あろうことか、美しいと思い込んでいる。

 私がどんなに口を酸っぱくして指摘しても、多数派の日本人は、自己犠牲の物語が大好きで、それゆえ、高校生たちが、理不尽な運命に苦しむ姿を、夏休みの娯楽として消費する習慣を決してあきらめようとしない。

 経緯を振り返っておく。

 2019年の7月25日、第101回全国高校野球選手権大会への出場を懸けた岩手大会決勝で、大船渡・国保陽平監督(32)が高校最速の163キロを記録したエースの佐々木朗希投手(3年)を起用せずに、敗退した。

 国保監督が佐々木投手の連投を避けるべく決勝戦での登板を回避させた判断の是非について申し上げるなら、すでに結論は出ている。

 あれは、どこからどう見ても正しい決断だった。

 この点について議論の余地はない。むしろ、これほどまでに明白な論点に関して、いまだに議論がくすぶっていることを、われわれは恥じなければならない。