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 この問題が、どんな方向で落着するのかについて、私は既に興味を失っている。
 というよりも、落着なんかしないだろうと思っている。

 別の言い方をすれば、この種の問題を合理的に落着させることなく、永遠に撹拌し続けていく忖度と威圧の体制こそが、吉本興業の支配を招いたわけで、彼らが提示している「笑い」は、最終的に「絆」だの「仲間」だの「家族」だのの周辺に生成されるゲル状(ゲロ状かもしれない)の半個体として、いずれ、われわれの社会を機能不全に陥れるに違いないのである。

 私の関心を引くのは、吉本興業そのものではない。この種のウェットな問題が起こる度に、飽きもせずに召喚される「家族」という物語の不潔さだ。

 あえて、「家族という物語の不潔さ」という挑発的な書き方をしたのは、「家族」という文字面を見た瞬間に、すっかり大甘のオヤジになってしまう人々に目を醒ましてほしいと考えているからだ。

「家族」
 という言葉を目にしただけで、うっかり涙ぐんでしまう、極めて善良な人々が、本当にたくさんいる。

 それが良いことなのか悪いことなのか、私には判断がつかない。
 ただ、「家族」という言葉ひとつで、どうにでもコントロール可能な人間は、どっちにしても、誰かに利用されることになる。

 理由は、誰もが誰かの家族である一方で、家族を利用する側の人間は、すべての人間を利用する邪悪さを備えているからだ。

 誤解を解くために、以下の文言を繰り返しておかなければならない。

 不潔なのは、家族ではない。
 家族の物語が不潔なのでもない。

 私が不潔さを感じてやまないのは、「家族」という物語の引用のされ方であり、その物語を利用して人々を支配したり抑圧したり、丸め込んだり説得したりしている人間たちの心根とその手つきだ。そこのところをぜひ間違えないでほしい。

 とはいえ、必ず間違える人たちが現れることはわかっている。

 この国には、「家族」に関して、自分の思い込みと少しでも違うものの言い方をされると、猛烈に腹を立てる人たちが思いのほかたくさん暮らしている。

 だからこそ、どんなに陳腐な形であっても、「家族」の物語を利用する人々にとって、うちの国の社会はチョロいわけなのである。

 岡本会見の炎上の焦げ跡がだらしなくくすぶっていた7月23日の未明、私はこんなツイートを書き込んだ。
《「家族」とか「兄弟」とか「仲間」とか「国民」とか「同志」とか、そういう「範囲を限った集合」を仮定しないと愛情を活性化できない人間は、結界の外の世界が目に入っていないわけで、それゆえ、その彼らの「家族愛」なり「愛国心」なりは、いともたやすく結界外の人間への敵対感情に転化する。0:29-2019年7月23日

 このツイートには、しばらくの間、主に賛同のリプライが寄せられていたのだが、どこかで引用なりRTされて以来なのか、翌日の夕方から後、にわかに反論や罵倒のリプが押し寄せる流れになった。