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 ジャスラックは、何と戦っているのだろうか。
 彼らは、自分たちが音楽そのものを敵にまわしはじめていることに、気づいていないのだろうか。

 ヤマハは、日本にはじめて西洋の音楽が入ってきた時代から、一貫して、楽器を作り、楽譜を出版し、音楽教室を展開し、音楽ホールを設計し、レコードやCDを制作し、コンサートを企画し、新人の音楽家を発掘してきた企業だ。

 もちろん、彼らとて営利企業である限りにおいて、音楽をカネに変える活動をしてきていると言えばそうも言えるだろう。しかし、総体として、ヤマハが音楽の普及と発展のために力を尽くしてきた企業であることについて、異論を唱える日本人はほとんどいないはずだ。

 引き比べて、ジャスラックは音楽の普及や音楽家の育成にほんの少しでも貢献してきたのだろうか。

 私は疑問に思っている。

 彼らは、音楽家の権利を守ると言っている。

 しかし、音楽家の中にも、自分たちの権利を守ってくれている団体であるのかどうかについて疑問を持っている人々がたくさんいる。

 この話はまた別の議論になるので、ここでは深く追究しない。

 ただ、私は、今回、

 私の目から見て、ジャスラックのような組織が、ヤマハのような企業を相手に、音楽の「正義」を主張している姿は、なにかの皮肉であるようにしか見えない。

 訴訟で争われている事例では、音楽講師と生徒が「美女と野獣」という楽曲を交互に演奏したことになっている。

 で、その演奏と鑑賞の相互作用の中に音楽著作権を不当に侵害する行為が含まれていたのかどうかが争われているわけなのだが、仮に「美女と野獣」という個別の楽曲に含まれる作曲者の意図や工夫が、音楽講師の卓越した演奏を通じて、生徒に伝えられていたのだとして、「音楽を学ぶ」という文脈から見れば、教える者から教わる者に伝えられているのは、単独の著作者による個別の楽曲の細部ではなくて、「音楽そのもの」とでも言うべき技法なり演奏術なりの真髄であるはずだ。

 私自身、子供の頃にピアノ教室に通って、バイエルだのブルグミュラーだのの楽譜をただただ機械的に再現するためのレッスンに苦しんだ記憶を持っている。

 ただ、その苦しいレッスンの抑圧的な記憶はともかく、私の身体の中には、わずかながら「音楽そのもの」が伝えられている。それは、特定の作曲家の個別の作品とは別のものだ。その、もっと普遍的な「音楽なるもの」を伝え、再現し、楽しむために、われわれは、楽器を発明し、楽譜を書き、レコードを回し、ストリーミング配信のための環境を整えている。そこにおける主役はあくまでも「音楽そのもの」であって、「特定の楽曲に含有されている誰かの権利」みたいなみみっちいものではない。

 音楽は、そうやって人から人に伝えられていくものだ。

 カネや著作権は、そうした音楽の流れの周辺に発生するノイズにすぎない。

 ジャスラックは、人が人に音楽を教えている現場にスパイを送り込んだ。このことは、同時に、人が人から何かを学び取ろうとしている場所に、悪意の観察者を紛れ込ませたということでもある。

 これはとても罪深いことだ。