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 この話題は、この6月の16日に日比谷公園周辺で展開された「年金」に関するデモ行進のニュースをめぐって、さらに醜い形で尾をひくことになる。

 これも、詳細を追うと胸糞が悪くなるばかりなので、私は別の視点から、もっぱら自分の感想を書くつもりだ。

 ということで、今回は、デモをめぐる議論の行方について思うところを書こうと思っている。

 最初に結論を述べておく。

 私は、先の震災以来、われわれの国が、極めて内圧の高い相互監視社会に変貌している感じを抱いていて、そのことの最もわかりやすい一例として、「デモ」を危険視し、「政治的であること」を異端視するマナーが、一般市民のための「常識」として共有されつつある現状を挙げることができると思っている。

 21世紀の普通の日本人は、政治的な発言をする人間を、全裸でラッパを吹きながら歩いている人間を見る時のような目で遠巻きに観察するばかりで、決して近づこうとはしない。ましてや、話を聞くなんてことは金輪際考えない。なぜなら、自身の政治的なスタンスを明らかにすることは、寝室での個人的な趣味をあけすけに語ること以上にたしなみを欠いた、上品な隣人をどぎまぎさせずにはおかない、悪趣味でTPOをわきまえない、自分勝手で下品なマナーであって、あえて白昼堂々政治的な話題を開陳することは、社会的な自殺企図に等しいからだ。

 ひとつ補足しておかなければならない。

「政治的」という言葉は、最近、少しずつ意味が変わりつつある。

 まだ入院中だった6月の11日に私はこんなツイートを発信している。

 《この5年ほどの間に「政治的」という言葉は、もっぱら「反政府的」という意味でのみ使用され、解釈され、警戒され、忌避されるようになった。
 政権に対して親和的な態度は「政治的」とは見なされず、単に「公共的」な振る舞い方として扱われている。
 なんとも薄気味の悪い時代になったものだ。》

 このツイートは、約3900回RTされ、約7100件の「いいね」が付いている。

 「いいね」をクリックした全員が同意してくれたとは思わない。

 しかし、同じ感想を抱いている人が相当数いることはたしかだと思う。

 われわれは、「政治的」であることを自ら抑圧しながら、結果として、自分の意図とはかかわりなく、全員が「お上」の手先となって「非国民」を自動的にあぶり出す社会を形成しはじめている。

 先の大戦に向かって傾斜して行く日常の中で、ある日、ふと気がついてみると、若い男女が手をつないで歩くことさえはばかられる社会が、すでに到来してしまっていた80年前の教訓を活かすこともできずに、私たちは、またしても同じ経路を歩きはじめている、と、私はそう思いながらここしばらくの世の中を眺めている。

 もっとも、反体制的であろうが、現政権に親和的であろうが、どっちにしても政治に関わる態度そのものが一般社会の中で煙たがられる傾向は、この何十年かの間に、少しずつ進行してきた動かしがたい流れではあった。

 ネット上で展開されるデモをめぐる論争が、毎度毎度極論のぶつかり合いに終始している現状も、結局のところ、平場の日常で政治を語ることが、タブー視されていることの裏返しだったりする。

 別の言い方をすれば、極論でしか語れないバカだけが、政治について発言する社会では、賢い人たちは沈黙しがちになるわけで、そうするとますますバカだけが政治発言を繰り返す結果、政治は、どこまでもバカな話題になって行く。

 21世紀の日本人は、普通の声量で、激することなく、互いの話に耳を傾けながら政治の話をするマナーを失って久しい。それゆえ、いまどき政治なんぞに関わって、ツバを飛ばし合っているのは、政治好きというよりは、単に議論好き論破好き喧嘩好きな、ねずみ花火みたいな連中ばかりという次第になる。

 不幸ななりゆきだが、これが現実なのだから仕方がない。