先日来、香港の路上を埋め尽くしていたデモは、今後、どういう名前で呼ばれることになるのだろう。

 現時点(6月19日までに報道されているところ)では、香港政府のトップが「逃亡犯条例」の改正を事実上断念する考えを示す事態に立ち至っている。

 してみると、デモは「成功」したと見て良いのだろうか。

 私は、まだわからないと思っている。

 この先、北京の中国政府がどんな態度に出るのかがはっきりしていない以上、現段階で軽々にデモの成果を評価することはできない。

 ただ、デモをどう評価するのかということとは別に、この1週間ほどは、海をはさんだこちら側からあの小さい島で起こっているデモを観察することで、むしろ自分たち自身について考えさせられることが多かった。

 たとえば、香港市民のデモへの評価を通して、論者のスタンスが意外な方向からはっきりしてしまう。そこのところが私には面白く感じられた。

 わたくしども日本人の香港のデモへの態度は、ざっと見て
1.中国政府を敵視する観点から香港市民によるデモを支持する立場
2.デモという手段での政治的な示威行為そのものを敵視するご意見
3.デモに訴える市民であれば、主張がどうであれとりあえず応援する気持ちを抱く態度
4.沈黙を貫く姿勢

 という感じに分類できる。

 だが、実際には、人々の反応はもう少し複雑なものになる。というよりも、SNS上でかわされている議論を見る限り、彼らの議論はほとんど支離滅裂だ。

 理由は、たぶん、香港のデモに関する感想と、沖縄のデモへの評価の間で、一貫性を保つことが難しかったからだ。

 実際、沖縄の基地建設をめぐって展開されているデモを
「単なる政治的な跳ね上がりであり、事実上の暴動と言っても過言ではない」
「特定の政治的な狙いを持った勢力によって雇われた人間たちが、カネ目当てで参加しているアルバイト行列に過ぎない」
 てな言い方で論難している人間が、同じ口で香港のデモを
「市民が自発的意思を表明した勇気ある民主主義の実践だ」

 と称賛するのは、ちょっとぐあいが悪い。昨今流行の言い方で言えば、「ダブルスタンダード」ということになる。

 一方、沖縄のデモを手放しで応援していた同じ人間が、香港のデモに対しては見て見ぬふりのシカトを決め込んでいるのだとすると、それもまた一種のダブスタと言われても仕方がなかろう。

 で、ネット上に盤踞する党派的な人々は、互いに、敵対する人間たちのダブルスタンダードを指摘し合ったりなどしながら、結局のところ、香港のデモのニュースを、単に、消費する活動に終始していた。

 どういうことなのかと言うと、香港のデモをめぐる論戦に関わっている人々の多くは、デモ参加者の主張そのものにはほとんどまったく関心を抱いていなかったということだ。彼らが熱い関心を寄せていたのは、当地のデモの帰趨が自分たちの主張を補強する材料として利用できるかどうかということだけだった。

 実にわかりやすいというのか何というのか、見ていてほとほと胸糞の悪くなる論戦だった。

 彼らは、
「香港と日本の民主主義の成熟度の違い」
 だとか
「公正な選挙が担保されている国とそうでない国での、デモの重要度の違い」
 あるいは
「反体制的な政治活動に関わる人間が命がけの危険を覚悟しなければならない国と、首相の人形を踏みつけにしても後ろに手が回る恐れのない国での、デモに参加する人々の覚悟の違い」

 あたりの前提条件を出し入れしながら、ランダムに浮かび上がる課題を、その都度自分の主張にとって有利に運ぶ方向で展開しようと躍起になっている。

 実にバカな話だ。