ただ、個々の論点がそれぞれに説得力を持っているのだとしても、それらの結論は、今回の自民党と講談社によるコラボ広告企画が投げかけている問題への説明としては焦点がズレている。
というよりも、私の目には、西田氏が、今回の問題から人々の目をそらすために、政治と広報に関する角度の違う分析を持ち出してきたように見える。
あるいは、私が西田氏のような若い世代の論客の話を、かなり高い確率でうまく理解できずにいるのは、「競争」という言葉の受け止め方が、違っているからなのかもしれない。
私のような旧世代の人間から見ると、21世紀になってから登場した若い論客は、「競争」を半ば無条件に「進歩のための条件」「ブラッシュアップのためのエクササイズ」「組織が自らを若返らせるための必須の課題」「社会を賦活させるための標準活動」ととらえているように見える。
もちろん、健全な市場の中で適正なルールの範囲内において展開される競争は、参加者に不断の自己改革を促すのだろう。
ただ、私はそれでもなお「競争」には、ネガティブな面があることを無視することができない。
たとえば、政治に関する競争について言うなら、政策の是非を競い、掲げる理想の高さを争い、政治活動のリアルな実践を比べ合っている限りにおいて、「競争」には、積極的な意味があるのだ、と私は思っている。だからこそ、政党や政治家は、もっぱら「政治」というあらかじめ限定されたフィールドの中で互いの志と行動を競っている。
ところが、広報戦略の優劣を競い、民心をつかむ技術の巧拙を争うということになると、話のスジは若干違ってくる。
その政治宣伝における競争の勝者が、政治的な勝利を収めることが、果たして政治的に正しい結末なのかどうかは、大いに疑問だ。
さらに、政治家なり政党が、雑誌広告の出稿量や、メディアへの資金投入量や、広告代理店を思うままに動かす手練手管の多彩さを競わなければならないのだとすると、その種の「競争」は、むしろ「政治」を劣化させる原因になるはずだ。
より多額な資金を持った者、より多様なチャンネルを通じて商業メディアを屈服させる手練手管を身につけている者、あるいは、より恥知らずだったり悪賢かったりする側の競争者が勝利を収めることになるのだとすると、「政治」は、カネと権力による勝利を後押しするだけの手続きになってしまうだろう。
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