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 いずれにせよ、自分自身の死について考えることが当面の慰安であるような局面に追い詰められている人の数は、のんきに暮らしている私たちが考えているよりずっと多い。

 自分の人生の中で希死念慮を抱いていた一時期を経験している人ということになると、その数はさらに多くなるはずだ。さらに、血中のアルコール濃度がある水準を下回った時の、半ばオートマチックかつケミカルな反応として希死念慮を抱く習慣を持っているアルコール依存症予備軍を勘定に入れれば、「死にたい」と一瞬でも考えたことのある人間の数はもしかしたら、日本人の半数を超えるかもしれない。

 そういう人々にとって

 「死にたいなら一人で死ね」

 という言葉は、自死を促すスイッチになりかねない。私はそのことを強く懸念する。

 上記で紹介した罵倒とは別に、私のアカウントに寄せられたリプライの中には
 「あなたの言いたいことはよくわかるし、もっともだとも思う。ただ、いまがそれを言うべき時であるのかを考えてほしい。あなたの主張は被害者遺族に対して配慮を欠いた物言いではないだろうか」

 という感じのやんわりとした指摘もあった。

 もっと強い言い方で同じ趣旨のことを言ってくる人は、もっとたくさんいた。

 おそらく彼らが指摘したかったのは、
 「犯人への憎悪と怒りが渦巻いている空気の中で、その空気に水を差す発言は、結果として犯人サイドを擁護することになるのではないか」
 「一番寄り添わなければならないのは、被害者であり被害者の遺族であるはずなのに、どうして事件が起きた当日に犯人やその予備軍に配慮した発言を発信しているのか」

 というようなお話なのだと思う。

 毎度のことだが、この種の扇情的な事件が起こると、マスメディアもそうだが、特にネットメディアは、その「扇情」をさらに煽りにかかる傾きを持っている。

 ちょっと前に「弱者憑依」というなんともいやらしい言葉がちょっとバズったことがあって、私はこの言葉が大嫌いなのだが、今回のようなこの種の事件に際しては、毎度「被害者憑依」「被害者遺族憑依」とでも言うべき感情のアンプリファイが横行することになっている。

 どういうことなのかというと、

 「被害者に寄り添う」

 という大義名分のもとに、犯人への憎悪や、事件への怒りや憤りを共有し増幅し、煽り立て、それらの感情的な同調をメディアぐるみで消費することで、あるカタルシスを得る運動が勃発するということだ。

 より簡単に言えば、怒りや義憤や憎悪をかき立てることで、アドレナリンを分泌させて、感情的な負荷の棚卸しをする人たちが大量発生するということでもある。うん。あんまり簡単な言い方になっていなかった。