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 もっとも、私のアカウントに直接語りかけるカタチでリプライを届けてきた人々の多数派が、私を罵倒していることは承知した上で、そのこととは別に、私は自分のツイートがツイッター世界の多数派に拒絶されたとは考えていない。むしろ、「いいね」の数や「RT」の数との対比から、私は、自分の書き込みに共感してくれた人の方が多かったと感じている。

 その根拠になるのかどうかはわからないが、ツイッターのようなSNSでは、怒っている人間や憎しみを抱いているアカウントの方が多弁になりがちで、共感を抱いている人々はより沈着な反応を示すものだからだ。

 悲しみが人々をフリーズさせ、彼らから言葉を奪うのに対して、怒りはそれを抱いている人間を饒舌にさせ、行動を促す。

 であるからSNSには、悲しみや落胆よりは、怒りと憎しみがより目立つカタチで集積することになる。

 もう一つ、私が、藤田氏の記事の中では特に触れられていなかった点で個人的に懸念を持ったのは、「死にたいなら一人で死ね」というメッセージが、孤独な人間を犯罪に追いやる可能性とは別に、それらの言葉が希死念慮を抱いている人間の背中を押す結果にならないかどうかだった。

 で、先ほどのツイートのすぐ後に
《希死念慮を抱いていながらギリギリのところでなんとか生きながらえている人間は、それこそ何十万人もいる。そういう人々にとって「死にたいなら一人で死ね」というメッセージは、本当に破滅的なスイッチになり得る。強くいましめなければならない。当然だ。》

 というツイートを連投した。

 これにも同じように、反発の声が多数寄せられている。

「希死念慮を抱いている人間を犯罪予備軍と一緒くたにするのか!」
「『希死念慮を抱いている人間』なんていう気取った言葉を振り回さずに、『死にたい気持ちを持っている人』と言えばもっと伝わるのに」

 などなど、さんざんな言われようだ。

 ひとこと申し添えておく。

 「希死念慮」という言葉は、たしかにガクモンくさいし、いかにも持って回った言い方に聞こえる。

 ただ、私は、このある意味で難解な言葉は、「死にたい」と考える気持ちを、外側から客体化して表現している点で適切な言い方だと思っている。

 「自分は希死念慮を抱いている」

 という観察は、自分自身を少し離れた位置から見つめている分だけ、しっかりしている。