そして、現在、いくつかの例外(運転免許証の申請書類、確定申告のための書類などなど)を除けば、われわれの世界はほとんどまったく西暦に沿って動いている。

 この流れはもはや誰にもとどめることはできない。
 新しい元号が発表されて、しばらくの間は、メディアも騒ぐだろうし、視聴者や読者も面白がるはずだ。

 会社名や商品名でも新元号にあやかったネーミングのブツが誕生することにもなるだろうし、話題性狙いでB級のタレントや下品な界隈の商売が新元号を看板に掲げて顰蹙を買ったりもすることだろう。

 でも、2年もすれば多くの日本人は飽きる。
 そうこうするうちに、公文書に新元号の記入を強要するような設定も、いずれ改められることになるはずだ。

 私自身の話をすれば、私は、この平成の30年間、書類であれプロフィールであれ、元号を書かされる段になると、必ず立ち止まって考え込んでしまう著しくものわかりの悪いオヤジだった。

「えーと、いまは平成の何年に当たるんだっけか」
「オレが学校を出たのは1980年だったはずなんだけど、ってことは、そりゃ昭和で言う何年に相当するんだ?」 「えっ? 昭和60年? って、それ西暦では何年だ?」

 と、西暦と元号のシンクロを求められる場面に遭遇する度に、毎回必ず同じ疑問に突き当たり、毎度まったく同じように検索したり他人に尋ねたりしながら、正しい年号をひねり出さなければならなかった。

 私が、こんな調子の惑乱に見舞われ続けてきた原因は、もちろん、自分のアタマの悪さに求めるべき話ではあるのだろうが、それ以上に、私自身が内心で、「平成」という外部から与えられた時代意識を、自分の中に取り込むことを頑として拒絶していたからなのだろうと思っている。

 とすれば、平成についてさえこれほどまでに冷淡だった私が、新元号に対して宥和的であろうはずがないことは、すでにわかりきっている。

 じっさい、私は、新元号みたいな見え透いた手練手管で自分の時代意識を左右されてたまるものかと、名称が決まるずっと以前の段階で、そう思い極めてしまっている。新しい元号がどういう文字の並びになるのであれ、私は、自分の時間がその文字の上を流れるとはついに感じないように気を配って暮らすつもりでいる。

 もっとも、私が、元号制度をぜひとも廃止に追い込みたいとか、新元号を改革の炎とともに燃やし尽くしたいと思っているのかというと、そんなことはない。そこまでのことは考えていない。