当たるか外れるかは、問題外だ。

 というよりも、万が一にでも当たる可能性があるのであれば、そんなゲームは許されないのであって、ということはつまり、予測している商業メディアが刺激的な見出しを打つ理由は、注目を引きたいから以上でも以下でもないわけだ。

 私個人は、政府が新元号に「安」の字を含んだフレーズを選ぶとは思っていない。
 無論、虚心に縁起の良い文字を並べていった結果、その中に「安」の字が含まれている可能性はゼロではない。

 とはいえ、李下に冠を正さずという言葉もある。いかに官邸とて、あえて現職の首相の名前を強制挿入したと勘ぐられるような名称をこの期に及んで手づかみで持ち出すほど不用意ではないはずだ。

 逆に、総理周辺が本気で「安」含みの元号で中央突破をはかろうとするのだとしたら、新しい時代は、安定や安心とはほど遠い混乱と恐怖の画期になることだろう。

 いずれにせよ、私は、新しい元号の文字面に関心を持っていない。
 というよりも、元号予測でオンエア時間を費やしている番組を見る度に、うんざりしてさえいる。

 元号は、いずれ役割を終えていく言葉だ。

 そもそも、「平成」という言葉自体、「昭和」と比べると、はるかに存在感が希薄だった。
 平成の時代を生きた日本人の多くは、自分たちが生きている時代を「平成」とは呼ばず「21世紀」とか「2010年代」とか「90年代」という言い方で区分することを好んだ。

 理由は、その方が便利だったからでもあれば、通じやすかったからでもある。
 必ずしも「平成」の30年間が冴えない30年間だったから、その言葉が嫌われたということではない。

 個人的には、この30年の間に、「元号」ないしは「和暦」に対するわれら日本人の気持が冷めたことが、「平成」という時代名称の使用頻度を低下させたという、わりと単純な話だったのだと思っている。

 たとえば、単行本の最後のページに記載されることの多い「著者略歴」の「生年月日」の欄は、私がライターとして文章を書き始めた1980年代(あるいは昭和60年代)当時は、ほとんどの場合元号に沿って表記されていた。

 それが、1990年(平成2年)を過ぎた頃から、西暦表記を採用する著者が目立つようになり、2000年を過ぎると、元号スタンダードで著者プロフィールを掲載する書籍はほぼ皆無になった。