「ピエール瀧容疑者」という主語を使ってしまったが最後、その後の部分で私がどんなに真摯な共感を表明したのだとしても、それらは言葉どおりには響かない。

 「ピエール瀧容疑者よ。私はあなたの自在なトークが大好きでした」
 と、こんな書き方で、いったい何が伝わるというのだろうか。

 新聞や雑誌のような媒体が、特定の人物について呼称なり表記の統一を要求したがるようになったのは、おそらく単に、メディアとしての統一性を確保したいからに過ぎない。彼らとて、犯罪の容疑者である人物に対して、共感を抱いたり好意を持つことを一律に禁じようとしているわけではないはずだ。

 しかし、表記の統一がもたらす効果について言うなら、それはまた別だ。

 ある人物について呼称を統一することは、その人物への感情の向けられ方を定型化せずにはおかない。

 書き手の立場からすれば、「容疑者」と表記した人物については、その呼称にふさわしい書き方でしか描写できなくなってしまう。
 これは、なんでもないことのようだが、実は、とんでもないことだ。

 なんとなれば、「容疑者」なり「受刑者」なりという呼称は、一個の人間から人間性を剥奪するスティグマ(烙印)として機能するはずだからだ。

 事件が発覚した一昨日の深夜以来、テレビの情報番組は、ひたすらにピエール瀧氏が犯した犯罪の深刻さを強調し続けている。

 テレビの画面を見ていて私が感じるのは、彼が犯したとされる
 「罪」
 のかなりの部分が、メディアによってアンプリファイ(増幅)された
 「騒動」
 だということだ。

 瀧氏が、報道されている通りに、違法な薬物を使用していたのであれば、そのこと自体は、無論のこと犯罪だ。
 その点については、ご本人も認めている。

 しかしながら、午前中から夕方にかけての時間枠の長い情報番組が、何度も何度も繰り返し繰り返し同じ映像を使い回ししながら、しきりに強調し続けているのは、瀧氏のかかわった仕事が、次々と配信停止になり、あるいは発売中止や公演停止に追い込まれ、店頭から回収され、一緒に働いていた仲間の努力が水泡に帰し、貧しい劇団員たちの収入が途絶え、損害が発生し、関係者が事態収拾に走り回り、事務所の人間が頭を下げ、相棒が涙を流し、ファンが落胆し、テレビ司会者が「裏切られた」と訴えている経緯や展開だったりするわけなのだが、それもこれも、結局のところ「メディアの主導によって引き起こされている事件の余波」によるものだ。

 もちろん、最も根本的な部分の原因は、瀧氏の不適切な行動にある。

 このことははっきりしている。

 しかし、火種を大きくし、見出しの級数を拡大し、関係者に対応を問い合わせしまくり、肉親に直撃取材を試み、ファンにコメントを求めているのは、テレビ局のスタッフでありスポーツ新聞の記者たちだ。

 そもそも、映画会社が配信を断念し、ゲーム制作会社が販売を延期し、放送局が収録済みの番組のネット配信を引き上げるに至った理由は、消費者による問い合わせや抗議の声が拡大し、現場のスタッフが縮み上がったからなのだが、その問い合わせや抗議のネタ元となった騒動の拡大を煽ったのは、ほかならぬテレビの情報番組だったりしている。

 ということは、10億円以上と言われている賠償額をより大きくすることでニュースバリューの引き上げにかかっているのは、実は彼らメディアの人間たちであり、結局のところ、われわれが真っ昼間のテレビの画面上で見せられているのは、進行中のメディアによるマッチポンプだということだ。