2014年5月にこのコラムの連載が始まってから、今回でまる5年になる。読者の皆様のご愛読に心から感謝したい。そして今回が、平成最後のコラムでもある。そこで今回は改めて、クルマにとって平成とはどんな時代だったのかについて考えてみたいと思う。
日本のクルマの黄金期
このコラムを書くために、平成元年(1989年)がどんな時代だったのかを振り返ってみたのだが、改めて感じたのは、日本のクルマにとってまさに黄金期だったということだ。1989年は、その年の12月29日に日経平均株価が史上最高の3万8957円を記録した年であり、まさにバブル景気の頂点だった。海外に目を転じれば、この年の6月に中国では天安門事件が起こり、11月にはベルリンの壁が崩壊するなど大きな歴史の転換点となった年でもあった。
つまり平成の幕開けは、日本という国のある意味絶頂期だったわけだが、そんな年に起こった自動車業界におけるエポックメーキングな出来事としてまず挙げたいのが、トヨタ自動車の「レクサス」、日産自動車の「Infiniti」という二つのプレミアムブランドが誕生したことだ(レクサスをカタカナ、Infinitiをアルファベット表記にしているのはレクサスブランドが日本に導入済みなのに対し、Infinitiは日本未導入であることによる)。
トヨタ、日産が新たなプレミアムブランドの最高級車として導入した初代「Lexus LS400」(上、米国仕様)と「Infiniti Q45」(下)(写真:トヨタ自動車、日産自動車)
それまで日本のクルマといえば、燃費が良くて壊れにくいものの、ステータスとかプレステージには無縁の存在だったわけだが、そうした常識にあえて挑戦したのがレクサスとInfinitiという二つのブランドだった。いや、正確にいえばその3年前にホンダが「Acura」というプレミアムブランドを導入していたのだが、残念ながらそれほど大きな存在感を示すには至っていなかった。やはり日本メーカーがプレミアムブランドをつくるのは難しいのではないか、そんなムードが漂う中、常識を覆したのがレクサスブランドだった。
トヨタがレクサスを象徴するモデルとして導入した最高級車「LS400(国内名セルシオ)」で特徴的だったのは「Yetの思想」と「源流対策」の二つのキーワードだ。Yetの思想とは、難しい課題に対しても安易に妥協せずに取り組む姿勢を指し、源流対策とは、表面的な対策でなく、根本的な原因にまで遡って問題を解決する姿勢を指す。例えばエンジンの振動や騒音を低減するのに、静音材や遮音材を増やすのではなく、加工プロセスまで見直して部品の精度を向上させ、エンジンそのものの振動・騒音を減らすことに取り組んだ。空気抵抗係数でCD値0.29という当時としてはトップレベルの空力性能を実現していたのも特徴で、ウインドーとボディーパネルの段差を極力小さくした新しい構造の採用や、床下を極力平たんな形状にするといった新しい考え方を採用した。
生産技術面でも、板厚や材種が異なる複数の鋼板をレーザー溶接で一体化した「差厚鋼板」を国産車としては初めて採用するなどの新しい技術を盛り込み、車体の軽量化を図った。こうした空力特性の向上や車体の軽量化によって、V型8気筒エンジンを積む高級車としては初めてガスガズラータックス(燃費が悪いクルマに課される税)を回避することに成功した。LS400の当時としては画期的な静粛性や燃費の良さは欧州の高級車メーカーに衝撃を与え、特にドイツの高級車メーカーの開発にも大きな影響を与えることになった。
この初代レクサスLS400に比べると、日産がInfinitiブランドの最高級車として発売した「Infiniti Q45」はグリルレスの大胆なデザインや高級車としてはスポーティーな乗り味が特徴だったが、個性的なデザインが支持されなかったことや、LS400と同等の静粛性・低燃費を実現できなかったこともあり、LS400ほどの成功を収めることはできなかった。しかし、従来の高級車とは異なる独自の価値観を追求し、日本車の存在感を高めることには貢献したと筆者は感じている。
数々の名車が登場
1989年という年は多くの名車が登場した年でもあった。その筆頭格が1989年5月に発売された日産の8代目「スカイライン」である。「R32型」と呼んだほうが分かりやすい読者も多いかもしれないが、このR32型スカイラインは当時日産が進めていた「901運動」の成果を盛り込んだモデルだった。901運動というのは「1990年代までに世界一の走りを実現する」ことを目指した活動で、1980年代に国内の販売シェアが低下傾向にあった日産がその打開策としてシャシー、エンジン、サスペンションなどの開発に取り組んだものだ。その成果がこのR32スカイラインのほか、1990年に発売された初代「プリメーラ」(P10)、1989年に発売された4代目「フェアレディZ」(Z32)、先に挙げたInfiniti Q45などの車種に盛り込まれた。
8代目のR32型「スカイライン」。「901運動」の成果が盛り込まれ、高い運動性能を実現した(写真:日産自動車)
R32型スカイラインはリアだけでなくフロントにもマルチリンク式サスペンションを採用するなど凝ったメカニズムを採用し、車体も7代目に比べると小型・軽量化され、その運動性能の高さは当時高く評価された。Q45と同様に、グリルレスのデザインも新鮮だった。さらにこのR32型スカイラインで、伝統のスポーツグレードである「GT-R」が復活したのも話題だった。このR32型は現在に至るまで評価は高いものの、運動性能を重視するあまり乗り心地が悪化したほか、7代目のR31型に比べると後席スペースも狭くなり、販売実績は必ずしも芳しいものではなかった。
1989年に発売された名車といえば、マツダの初代「ロードスター」も忘れてはならないモデルだろう。往年の英国の小型オープンスポーツカーをイメージしながらも、外観デザインは能面をモチーフにするなど、随所に日本的な要素を取り入れ、独自の価値観を追求した。初代ロードスターの発売当時、マツダは販売チャネルを従来の「マツダ店」に加え「ユーノス店」「アンフィニ店」「オートザム店」「オートラマ店」を加えた5チャネル制の販売戦略を採っており、ロードスターはユーノス店から「ユーノス ロードスター」として売り出された。
小型オープンスポーツカーブームの火付け役となった初代マツダ「ロードスター」(当時はユーノス ロードスターと呼ばれた)(写真:マツダ)
初代ロードスターは、発売翌年の1990年には世界で10万台近くを売り上げ、小型オープンスポーツカーとしては異例のヒット商品となった。ロードスターのヒットがきっかけとなって欧州メーカーも相次いで小型オープンスポーツカーを発売した。先にレクサスLS400が当時のドイツの高級車メーカーに大きな影響を与えたことに触れたが、このロードスターも同様に欧州メーカーに大きな影響を与えた。当時の日本車がいかに勢いがあり、世界の完成車メーカーに影響を与えていたかを物語る一つのエピソードといえるだろう。
このほかにも、1988年から1990年にかけては、日産自動車の「S13型シルビア」、先に挙げた初代プリメーラ、マツダの「ユーノス コスモ」などきら星のごとく名車が登場した。日本車が世界の一流メーカーに追いつき、部分的には追い越したのが平成という時代だったといえるだろう。
コスト削減に追われた1990年代
ところが、バブル景気が崩壊すると日本の自動車メーカーを巡る状況は一変する。それまで、いかに付加価値を上げるかが開発の焦点だったのに代わって、コスト削減が開発の最大の課題になった。その象徴的なモデルが1995年に発売されたトヨタ自動車の8代目「カローラ」だ。その前の7代目カローラは、インストルメントパネル全面やドアトリム全面をソフトパッドで覆い、耐久品質を上げるためコネクターの接点部分を金メッキするなど、大衆車クラスとしては異例の高級な仕上げを施して「ミニセルシオ」と呼ばれた。
「ミニセルシオ」と呼ばれた7代目「カローラ」と、コスト削減を徹底した8代目「カローラ」(写真:トヨタ自動車)
これに対して8代目ではインストルメントパネルを部分パッドに変更し、さらにインパネと空調の配管を一体化して部品点数を削減するなど、徹底したコスト削減を図ったモデルとなった。こうしたコスト削減に国内の完成車メーカーが追われる間に、欧州メーカーは品質・性能を確実に向上させ、再び日本車との差を広げていった。このときに付いた差は大きく、この差が再び縮まるには2010年代後半まで待たなくてはならなかった。
「次」への布石を打ったトヨタ、ホンダ
バブルの後遺症は業界再編も引き起こした。1996年にバブル景気の崩壊で経営が悪化したマツダに対して米フォード・モーターは、出資比率をそれまでの25%から36.8%に引き上げて実質的に傘下に収めたほか、1999年には同様に経営が悪化した日産自動車に仏ルノーが34%を出資した。さらに当時のダイムラー・クライスラー(現在の独ダイムラー)が2000年に三菱自動車工業に33.4%を出資するなど、日本の完成車メーカーは相次いで欧米メーカーの傘下に入ることになった。
日産、マツダ、三菱自動車が経営再建に追われるのを尻目に、次への布石を打っていたのがトヨタとホンダだ。1997年12月にトヨタ自動車が世界で初めて商品化したハイブリッド車「プリウス」は、初代および2代目こそ販売台数が伸び悩んだものの、2000年代を通じて着実な改良が進んだ。そして2009年に発売した3代目プリウスは2代目よりベース車種の価格を30万円近く引き下げた効果もあり、爆発的なヒット商品となり、カローラに代わってトヨタの看板車種になった。
世界最初の量産ハイブリッド車となったトヨタの初代「プリウス」(写真:トヨタ自動車)
初代プリウスに遅れること2年、ホンダも1999年にハイブリッド専用車「インサイト」を発売した。このコラムの「新型インサイトのもったいない部分」でも触れたように初代インサイトはヒットしなかったが、2009年に発売した2代目は大ヒット商品になり、ハイブリッド車の盟主を自任するトヨタの逆鱗(げきりん)に触れることになった。2010年代を通じてトヨタとホンダのハイブリッド車比率は上昇し、現在ではトヨタ、ホンダとも登録車(軽自動車以外の車種)におけるハイブリッド車の国内比率はトヨタの2018年の実績で約45%、ホンダに至っては2019年1~3月の実績で約55%を占めるまでになっている。
そしてトヨタとホンダがもう一つ打っていた布石が「クルマの知能化」だ。トヨタとホンダはともに、2003年に世界で初めて自動ブレーキを商品化した。トヨタは2代目「ハリアー」に、ホンダは4代目「インスパイア」に搭載したのだが、当時の自動ブレーキは「衝突軽減ブレーキ」と呼ばれていた。その理由は、クルマを完全に停止させる機能は備えておらず、衝突速度を軽減させる機能にとどまっていたからだ。当時はクルマを完全に停止させる機能を備えると、人間がシステムを過信してしまう恐れがあると考えられていた。
しかしその後、欧州で完全に停止する機能を備えた自動ブレーキが商品化されるに及び、国内でも同様の機能を備えた自動ブレーキが普及し始めた。当初はオプション価格が50万円程度もしていた自動ブレーキも、2010年に当時の富士重工業(現在のスバル)が商品化した「アイサイト Ver.2」では10万円まで下がり、「ぶつからないクルマ?」という刺激的なキャッチコピーも相まって、急速に普及が進み始めた。
スバルの5代目「レガシィ」は部分改良で自動ブレーキ「アイサイト Ver.2」を搭載した(写真:スバル)
このように平成という時代は、日本のクルマが一度は欧米の一流メーカーに肉薄し、さらに電動化と知能化という現在のクルマのトレンドに通じる技術開発でも世界に先んじて商品化を進めた時代といえる。ただし、その様相が変わってきたのが2010年代後半だ。米グーグルがそれまで技術的に困難と見られていた自動運転技術の開発に取り組み始める一方で、ハイブリッド車の普及で圧倒的にリードしていた日本メーカーに対し、中国や欧米では2010年代後半から電気自動車(EV)を中心に据えた電動車両の普及を図り始めた。さらに2019年から商業化が始まる第5世代移動通信システム(5G)の普及により、クルマのコネクテッド化も加速しそうだ。
こうした自動車業界の動きはまとめて「CASE(コネクテッド化、自動化、シェア&サービス化、電動化)」と言われることが多いが、この四つのキーワードはコネクテッド化、自動化、電動化によって、クルマのシェア&サービス化が進む、という位置づけになる。いま、合弁会社での販売台数や使われているプラットフォームのベース車種まで考慮すると、世界で販売されているクルマの約1/3が日本メーカー製、または日本車をルーツとするクルマだ。平成の時代に、世界に冠たる自動車立国を成し遂げた日本メーカーだが、モノからサービスへという世界の自動車業界の潮流の中で、次の「令和」の時代にもその地位を保つことができるかどうかはまだ予断を許さない。
以下の記事も併せてお読みください
この記事はシリーズ「クルマのうんテク」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。
Powered by リゾーム?