「今まで、がんやがんの治療に由来する痛みを慢性疼痛の研究班では扱ってこなかったんです。でも、そろそろやらないといけないと思っています。今はもうがんでは亡くならない時代になってきつつある中で、例えば、放射線治療や化学療法で、神経障害、組織障害が起こったときに出てくる慢性疼痛をどう扱うのか。進行性でもう亡くなっていく方なら、意識がなくなるギリギリのレベルまでのモルヒネを入れてあげるのも選択肢ですけど、そのまま20年も続けるにはいかないわけです。やっぱり、立って歩いて、自分の意志を表出して、社会生活をしていかざるをえないわけですから。さらに、非がん、がんじゃない人に強いオピオイド鎮痛薬を処方するケースも出てきており、それも新たな問題です」
実際にオピオイド鎮痛剤を多く使っても症状が改善せず、困り果てて「痛みセンター」にやってくる例も出てきており、牛田さんも、日本慢性疼痛学会も、「非がん」でのオピオイド鎮痛薬使用には慎重な立場だという。
そして、もっと長い目標で考えたときには、痛みについての「一般教養化」が必要ではないかというのが牛田さんの見解だ。
「医学生にちゃんと教えるというのはもちろんで、もうすぐ『疼痛医学』の教科書もはじめて出ます。これは、医学にかかわる者にとって感染症や感染制御の知識が必須であるように、当たり前にならないと困るんです。でも、実は、大学ではなくて、もっと一般教養的なもののところにも落としこんでいけないかとも思っています。痛みのことをもう少し多くの人に理解してもらうことによって、痛みがあっても困らない、対応能力の高い人が増えれば、そうそう大きな問題は起きにくくなるんじゃないかということです」
これはつまり、中学や高校の保健体育のレベルで、痛みというものの本質というか、成り立ちを理解するべきだという話だ。たしかに、痛みというのは、すべての人がかかわるものなのだから、今回、聞いてきたような、生物学的・心理的・社会的なものの上にあることが常識になれば、悪循環にはまる前に対処できる人が増えるだろう。
「僕はよく『お化け屋敷論』って言うんですけど、どこから何が出てくるか分からないからお化け屋敷なんであって、上からみたお化け屋敷ほど間抜けなものはないぞ、と。痛みについても、不安が大きく作用するので、これは怖くないというのが分かったら、そんなに怖くないわけです」
すごく逆説的に響くかもしれないが、慢性疼痛の治療の第一目的は、痛みを減らすことではなく、患者がみずから「痛みの管理」をできるようにすることだ。もちろん、痛みを減らすためのあらゆる努力を行うわけだが、かといって鎮痛薬で一日中眠っているような状況は、目標として適切ではない。結局、痛みとつきあいつつ、生活の質や、日常生活での動作をできうる限り向上させるというのが、最重要なことだという。
以上、牛田さんから受けたレクチャーの内容をなんとか伝えようと努力してきた。そして、これだけ言葉をつくしたにもかかわらず、その全体像をうまく素描できた確信がない。きっといくつかの重要な論点を落としてしまったかもしれないと不安になる。
「痛み」というのは、本人にとっては本当に切実なのに、いざ捉えようとすると、つくづく、不定形のアメーバのようで、常に形を変えていく小魚の群れのようだ。牛田さんが実感を込めて語った表現をぼくも少しだけ追体験した気がする。
いずれにしても、多くの人が人生の中で直面する慢性的な痛みについて、「破局的な思考」に落ち込まず、悪循環にはまらずにやっていくための知恵を構築するのはものすごく大事だ。そのためには、自分自身の「心理的」な部分はもちろん、「社会的」に積み重ねていくべきものの多かろうと強く感じているところだ。
おわり
(このコラムは、ナショナル ジオグラフィック日本版サイトに掲載した記事を再掲載したものです)
1966年、香川県生まれ。愛知医科大学医学部教授、同大学学際的痛みセンター長および運動療育センター長を兼任。医学博士。1991年、高知医科大学(現高知大学医学部)を卒業後、神経障害性疼痛モデルを学ぶため1995年に渡米。テキサス大学医学部 客員研究員、ノースウエスタン大学 客員研究員、同年高知大学整形外科講師を経て、2007年、愛知医科大学教授に就任。慢性の痛みに対する集学的な治療・研究に取り組み、厚生労働省の研究班が2018年に作成した『慢性疼痛治療ガイドライン』では研究代表者を務めた。
1964年、兵庫県明石市生まれ。千葉県千葉市育ち。文筆家。小説作品に、『川の名前』(ハヤカワ文庫JA)、『青い海の宇宙港 春夏篇』『青い海の宇宙港 秋冬篇』(ハヤカワ文庫JA)、NHKでアニメ化された「銀河へキックオフ」の原作『銀河のワールドカップ』(集英社文庫)とその“サイドB”としてブラインドサッカーの世界を描いた『太陽ときみの声』(朝日学生新聞社)など。
本連載からのスピンアウトである、ホモ・サピエンス以前のアジアの人類史に関する最新の知見をまとめた近著『我々はなぜ我々だけなのか アジアから消えた多様な「人類」たち』(講談社ブルーバックス)で、第34回講談社科学出版賞と科学ジャーナリスト賞2018を受賞。ほかに「睡眠学」の回に書き下ろしと修正を加えてまとめた『8時間睡眠のウソ。 日本人の眠り、8つの新常識』(集英社文庫)、宇宙論研究の最前線で活躍する天文学者小松英一郎氏との共著『宇宙の始まり、そして終わり』(日経プレミアシリーズ)もある。近著は、世界の動物園のお手本と評されるニューヨーク、ブロンクス動物園の展示部門をけん引する日本人デザイナー、本田公夫との共著『動物園から未来を変える』(亜紀書房)。
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