「ひとつ、びっくりするような症例を紹介しますと、30代の女性で、全身のアロディニアで、歩行困難、座位困難。つまり、歩けない、座れないという人がいました。しかし、レントゲンも、血液検査も異常なしで、まず、線維筋痛症(せんいきんつうしょう)というまだ原因がよく分かっていない病気と診断されました。プレガバリンなど最近よく使われている薬も効果なく、じゃあ、特段、異常の所見がないのに強い身体症状が出る『身体表現性障害』だということになったそうです。でも、患者さんは、診断に納得できずにあちこちの病院に行くんですけど、どこにいっても異常なしと言われるわけです。その後、僕たちのところにこられて、『痛い、痛い』『こんなに痛いならもう死んだほうがまし』と大きな声で叫ぶんです」

 ちなみに、この患者さんは歩行どころか座ることも難しいので、付き添う夫が介助していたという。診察の際にも、診察室のベッドに横になる時もすべて夫がサポートするほどのかいがいしさだったそうだ。

「すると、疾病利得があってこじらせるんじゃないかと疑いたくもなるし、家族に依存しているのをどうにかしないといけないし、とにかく動かさなければならないし、心理的な面から催眠療法みたいなものも試す価値があるだろうとか議論をしていたんですが、レントゲンやMRIや画像検査をもう一回念入りに行ったら、なんと脊椎が折れてるんですよ。そりゃあ、痛いでしょう。それで、骨粗鬆症(こつそしょうしょう)の検査をしたら、その指標も実年齢の平均から完全に逸脱していて、80歳の平均よりもさらに低いじゃないですか。これは病的骨折しか考えられないということでいろいろ調べて、最終的に内科で骨軟化症と診断がつきました。まあ、びっくりしましたけど、こういう『見逃し系』っていうのが相当来るんですね」

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 こういったことは、医師が気をつけなければならない落とし穴だ。慢性疼痛の場合、心理的社会的な要因が大きいとはいえ、かといって生物学的(医学的)な「なにか」が潜んでいる可能性は常にある。それなのに、「疾病利得があるかどうか」といったことにばかり気を取られていると、大切なことを見逃してしまうことがありうる。

 なお、この患者さんの痛みは、「骨軟化症」という診断がついた途端に、劇的に改善した。

「本当に骨軟化症が分かった瞬間にアロディニアは改善しました。もう、びっくりするぐらい速やかに。もう患者さんが死のうか生きようかとか言うとったのが、原因が分かって、骨軟化症で間違いないよって言ったら、じゃあ、なんとかがんばろうとなって、腰の骨はつぶれたままですけど、今はもう普通に座れますから」

 牛田さんが言っていた、「小魚の群れがぱっと反応して動くようなイメージ」を想起した。この場合、脊椎の骨折が分かったからといって、その骨折が急に治癒するわけではない。にもかかわらず、心身の色々なモードが一気に切り替わったのではないだろうか。本当に慢性疼痛というのは奥深い。

つづく

(このコラムは、ナショナル ジオグラフィック日本版サイトに掲載した記事を再掲載したものです)

牛田享宏(うしだ たかひろ)

1966年、香川県生まれ。愛知医科大学医学部教授、同大学学際的痛みセンター長および運動療育センター長を兼任。医学博士。1991年、高知医科大学(現高知大学医学部)を卒業後、神経障害性疼痛モデルを学ぶため1995年に渡米。テキサス大学医学部 客員研究員、ノースウエスタン大学 客員研究員、同年高知大学整形外科講師を経て、2007年、愛知医科大学教授に就任。慢性の痛みに対する集学的な治療・研究に取り組み、厚生労働省の研究班が2018年に作成した『慢性疼痛治療ガイドライン』では研究代表者を務めた。

川端裕人(かわばた ひろと)

1964年、兵庫県明石市生まれ。千葉県千葉市育ち。文筆家。小説作品に、『川の名前』(ハヤカワ文庫JA)、『青い海の宇宙港 春夏篇』『青い海の宇宙港 秋冬篇』(ハヤカワ文庫JA)、NHKでアニメ化された「銀河へキックオフ」の原作『銀河のワールドカップ』(集英社文庫)とその“サイドB”としてブラインドサッカーの世界を描いた『太陽ときみの声』(朝日学生新聞社)など。
本連載からのスピンアウトである、ホモ・サピエンス以前のアジアの人類史に関する最新の知見をまとめた近著『我々はなぜ我々だけなのか アジアから消えた多様な「人類」たち』(講談社ブルーバックス)で、第34回講談社科学出版賞と科学ジャーナリスト賞2018を受賞。ほかに「睡眠学」の回に書き下ろしと修正を加えてまとめた『8時間睡眠のウソ。 日本人の眠り、8つの新常識』(集英社文庫)、宇宙論研究の最前線で活躍する天文学者小松英一郎氏との共著『宇宙の始まり、そして終わり』(日経プレミアシリーズ)もある。近著は、世界の動物園のお手本と評されるニューヨーク、ブロンクス動物園の展示部門をけん引する日本人デザイナー、本田公夫との共著『動物園から未来を変える』(亜紀書房)。
ブログ「カワバタヒロトのブログ」。ツイッターアカウント@Rsider。有料メルマガ「秘密基地からハッシン!」を配信中。

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