円谷幸吉選手と「東洋の魔女」が活躍した背景

 例えば五輪の会場は、かつての軍用地から転換しているところが多く、具体的には赤坂、六本木、青山、原宿、渋谷、そして世田谷周辺にかつて日本軍の兵舎や練兵場、さまざまな施設があった。多くが戦後、米軍に接収されたが、そこには米国のカルチャーを求める若者が多数集まり、原宿や六本木のようなファッショナブルな街が形成されていった。

 やがて60年の日米安保反対の嵐が吹き荒れ、米国の国務省は都心の目立つ場所に米軍施設があるのは日本国民の反発を生み、日米安保の観点から適切でないと考えるようになった。こうして64年大会を控えて返還されたのが、代々木公園周辺の「ワシントンハイツ」であり、ここに選手村や競技場がつくられた。かつての日本軍の街が米軍の街となり、それがオリンピックシティーになったわけだ。

1964年大会と今回の五輪はどうつながっているだろうか(写真:AP/アフロ)
1964年大会と今回の五輪はどうつながっているだろうか(写真:AP/アフロ)

主役である選手にとっては、64年大会とはどんな大会だったでしょうか。

吉見氏:64年大会で圧倒的多数の日本人を熱狂させたヒーロー、ヒロインは、マラソンで銅メダルの円谷幸吉選手と「東洋の魔女」と呼ばれ金メダルの女子バレーボールチームに集約されると思う。まさにこの円谷選手、東洋の魔女には戦前からの連続性がある。

 福島の農家の末っ子に生まれた円谷選手は、父親から軍隊が人間を鍛えるいいところだと聞いていたという。軍がなくなっていたので自衛隊に入隊すると、五輪に向けて自衛隊が作り上げたトレーニングシステムの下で集中して取り組みメダルを獲得。貧しい農村から軍に志願して戦地で英雄になる戦前の軍と似たパターンであり、その残滓(ざんし)が円谷選手の活躍につながった。しかし、五輪が終わりトレーニングシステムが変わると、社会からの過剰な期待に応えきれなくなり自殺し、残された遺書は人々にやりきれなさを残した。

 一方、東洋の魔女は紡績工場の女子労働の歴史とつながっている。紡績業は戦前から大量の女子労働力を雇用していたが、多くが農村の貧しい地方から来ていた。労働環境が不十分な中で労働組合の運動が激しくなり、会社は融和策としてレクリエーションの仕組みを整えた。こうして各地の紡績工場で広がったスポーツがバレーボールだった。戦後も紡績会社は女子従業員を大量に雇用し、復興段階にあった日本の経済成長を支えたが、そこで選び抜かれた女性たちが64年大会の選手だった。

運営面で64年大会について象徴的なのはどんなことでしょうか。

吉見氏:聖火リレーについてみると、64年大会の聖火リレーは当時米国から返還前だった沖縄から始まった。米国は当時ケネディ政権に変わり、国務省は日米関係を長期的に安定させるには融和的な関係を日本国民とつくっていく必要があり、沖縄について日本に返還しなくてはならないと考えていた。そのころの沖縄の人々にとって「日の丸」を振ることは米軍支配からの解放を意味しており、聖火リレーの沿道は日の丸一色となり熱気に満ちていた。沖縄の復帰に向かう流れの出発点が64年大会の聖火リレーだった。その意味で当時の政治状況を強く反映している。

 聖火リレーは沖縄から本土に入ると火を4つに分ける「分火」によって4つのコースで日本各地を回った。分火は今は禁止されているが、出発地の1つは宮崎であり、ここにも戦前との連続性があった。64年大会以前に東京では40年大会が予定されていたが、戦争突入で実現しなかった。幻に終わった40年大会では日本神話の舞台である宮崎の高天原から国内のリレーが始まることになっていた。それが64年大会に引き継がれたわけだ。

 ギリシャで採火して多数の走者が大会スタジアムまで火を運ぶという聖火リレーは戦前、36年のベルリン大会においてヒトラーが「発明」したものだった。リレーによってギリシャとドイツを目に見える仕方で結びつけ、ゲルマン民族こそがギリシャ文明の正当な後継者であることを示そうとしており、第二次世界大戦で侵攻するための戦略も内包していた。

つぶさに見つめると、64年大会のいろいろな側面が浮かび上がってきます。

吉見氏:幻の40年大会、64年大会、そして今回に共通するのは、日本において五輪が復興や再建と結びつけられてきたことだ。

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