間近に迫った2回目の東京五輪に対し、1回目の1964年大会における熱気の再現を期待する声が多い。高度成長期の「成功体験」と結びついた64年大会「神話」の真実は何か。東京の都市論に詳しく、五輪や万博に関する著書もある東京大学の吉見俊哉教授に聞いた。

東京で2回目の五輪開催が近づいています。前回の64年大会と今回の間で日本社会はどう変わったのでしょうか。

吉見俊哉氏(以下、吉見氏):「より速く、より高く、より強く」は五輪のモットーとして知られるが、64年大会ではそこにより速く、より高く、より強く「成長する」という意味が隠されていた。当時は高度経済成長期で、五輪を起爆剤として右肩上がりの成長を加速していった面がある。

吉見俊哉氏は1957年東京生まれ。東京大学副学長などを経て、現在同大学大学院情報学環教授。著書に『都市のドラマトゥルギー』『五輪と戦後: 上演としての東京オリンピック』『東京裏返し 社会学的街歩きガイド』など(写真:栗原克己)
吉見俊哉氏は1957年東京生まれ。東京大学副学長などを経て、現在同大学大学院情報学環教授。著書に『都市のドラマトゥルギー』『五輪と戦後: 上演としての東京オリンピック』『東京裏返し 社会学的街歩きガイド』など(写真:栗原克己)

 しかし、右肩上がりの成長は70年代を経て、遅くとも80年代までで終わり、90年代以降、平成の30年間の日本はそれまでのようにはうまくいかなくなった。90年代半ば以降、日本は成長社会から成熟社会へ、大量生産・大量消費型の社会から資源のみならず都市や文化まですべてが循環型の社会へと根本から変わるべき段階にいる。これに伴い、「より速く、より高く、より強く」は「より愉しく、よりしなやかに、より末永く」に変わらなければならない。「愉しく」とはクオリティー・オブ・ライフ、「しなやかに」とはレジリエンス(困難な状況に柔軟に対応して回復する力)、「末永く」とはサステナビリティー(持続可能性)を示す。

それでも今回の五輪を高度成長だった64年大会のころのような熱気を取り戻すきっかけにしたいという声が少なくありません。

吉見氏:日本人の多くにとって64年大会はそれだけ戦後の「成功体験」の「神話」として、しみついている。

 メディアが64年大会に言及する回数を調べると、当然ながら60年代は多いが70年代、80年代になると回数が減ってくる。それが90年代半ばごろから再び増え始める。89年に終わった昭和の回顧も理由と考えられるが、同時にこれは90年代半ば以降に日本経済が低落する中、「勢いがあった60年代をもう一度経験できないか」という思いが人々に広がったためだと考えられる。平成は昭和を消費し、泥沼から抜けられなくなった。

 コロナ禍で事情は変わってきているが、それでも少なくともコロナ禍の前まで、東京での2回目の五輪開催を支持した人々の根底にあったのは64年大会に対するノスタルジーだった。2005年に、東京都知事だった石原慎太郎氏が「もう一度東京で五輪を開く」と宣言したのは、64年大会に対するこうした大衆の意識を感知した面があった。菅義偉首相も6月、国会の党首討論で「(コロナ禍で)ここまでしてオリンピックを開催する意義がどこにあるのか」を問われ、高校生のころに64年大会をテレビで見て感動したという思い出を語った上で、そのときの感動を今の子供や若い人に伝えたいといった趣旨の答弁をしている。

 それだけに、今回の五輪で重要なのは64年大会との距離のとり方になってくる。そのために、私は2020年春に出した『五輪と戦後: 上演としての東京オリンピック』で、64年大会がどんな大会だったかを改めて徹底的に検証した。

「神話」ともされる64年大会とはどんな大会だったと考えますか。

吉見氏:64年大会は45年に戦争が終わってから20年たってない時点での開催だった。このため、戦中期の延長の日本を戦後の高度経済成長の仕組みに合わせて接続していく要素を多分に持っていた。つまり、そこには戦中期からの、そして米軍による占領時からの連続性がある。

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