川内:そうなんですよね。今の話で思うのは、ご家族の中に時間という客観的な評価を当てはめるのって、そもそもどうなのかと。

「よし、5分居た」みたいな感じになるっておかしいですよね、考えてみたら。

川内:そうそう。だってたぶん私も自分の父親と今、家族として会話したら2分持つかどうか。

短い。

川内:まあ、父親は介護の仕事をしているので、介護の仕事の話なら4時間でもできるんです。でも、1対1の人間としての話は2分あれば十分ですよね。生きている? 生きている。以上終わり(笑)。それって長さでもなければ頻度でもないと。

松浦さんは、お母様と過ごせる残りの時間を算出されていましたよね。

 私は恐れていた。会えば「なぜこんなところに私を入れた」と責められるのではないか。あるいは「家に戻せ、戻せ」とせっつかれるのではないか、と。

 わかっている。正々堂々会いに行き、言われたならばそれを受け流し、耐えねばならない。それが家族の責任だ。が、そのことが、心身よれよれの自分にはひどく辛いことに感じられた。

 負い目を吹っ切ったのは次のような計算だった。母に会いに行き、例えば1時間話をするとしよう。2時間でもいいが、認知症を患う母の話に、2時間立て続けに付き合うのは難しいだろう。1週間に1回会いに行くとすると、年間52時間。つまり2日と4時間。

 いったい母は、あとどれほど生きるのか。5年か、10年か、はたまた3年か。5年なら面会時間の総計は260時間。つまり11 日弱。10年なら22日弱。3年なら156時間で6日半となる。

 この数字に思い至ったとき、私は慄然とした。もう、母と一緒に過ごす時間は、たったこれだけしか残されていないのだ。母の子として生まれ、幼少時は何年も時間を共にしたというのに、母が人生の終末期に至りグループホームに入居させたいま、残された時間はすでに日単位でしかないのだ。しかもその日々は認知症が進行する日々でもあって、いずれ母は歩けなくなり、我々兄妹が誰だかわからなくなり、最後は寝たきりになるという未来が見えているのである。

 とはいえ、共有する時間が短いということは、同時に救いでもある。自宅介護で24時間ずっと自分が面倒を見ていれば、自分が潰れてしまうのだから。

 つまり、ホームに入居させた以上は、会える時間は貴重であると意識し、常に一期一会の覚悟を持って母と正対しなくてはならない。

(『母さん、ごめん。2』14ページより)

川内:あれも松浦さんらしいなと思いながら読ませていただきました。

松浦晋也さん
松浦晋也さん

松浦:母親とともに過ごす時間というのは、安藤なつさんとの対談でも話しましたが、中学卒業、15歳でだいたい7割終わっているというんですってね。書いた後で思いましたが、あの計算は、実は「終わっていくのだ」ということを確認するためのものだったのかもしれない。「こういうものなのだ、これでいいのだ」ということだと。これは本が出版された後になって気付きました。

川内:いいと思います。過ごす時間が短いほうが、お互いにいい関係性でいられる、ということもあるだろうし。

松浦:かもしれない。だから本当に交換する情報は、無事か、無事だ、だけでいいんでしょうね。

親子再統合!ってそもそも不自然だ

川内:親離れ子離れという言葉もありますが、親子は成人すれば本当に離れているわけですよね。それぞれが独立して生きていて、それで成り立っている。にもかかわらず、介護となると再統合しようとするじゃないですか。

確かに。

川内:親会社が危機だから子会社と再統合、合併、みたいな。

親子の関係性を逆転して戻そう、みたいな。

川内:でもすでに過ごすべき時間を過ごし終えて、独立した人間になっているのならば、家族を再統合してもいいことがあるのか。昔と同じようなかかわりを親に求めていったりとか、親が自分に厳しく何かを強いたのであれば、「あのときあなたはこう言った」と、立場の逆転を使って、返しちゃいそうじゃないですか。

なるほど。「親子」時代の矛盾を大人同士で再生しても。

川内:いいことないですよね。

まるでないですね。言われてみると不思議ですね。

松浦:介護は、自分たちの思い込みを全部ひっくり返してくる鏡みたいなところがありますよね。

川内:はい、そうなんです。専門職として仕事をしていると、今までの自分の感覚とか価値観みたいなものが、徹底的に裏切られていく感じです。それだけだとしんどいんですが、これは、今、自分に足りていないことを何か教えてくれているんじゃないかなと思っていまして。

といいますと。

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