――母もまた認知症を発症する前は、「歳をとってもホームなんてところ入りたくない」というのが口癖だった。「老人ばっかり集められて、チイパッパとお遊戯とかやらされるなんて、おお嫌だ」と言っていた。常々「最後まで頑張って生きるから、あなたたち、死ぬときだけは手伝って頂戴」と、我々子どもたちに主張していた。自分で意志的に自分の人生を締めくくる意欲満々だった。

 我々もまた、根拠もないのに、きっとそうなるのであろうと思っていた。

 しかし認知症を発症すると、意志の源である脳の機能が落ちていく。症状は決して止まることなく進行し、本人が意志を貫くことはできなくなっていく。

 徐々に、しかし確実に、家庭において家族の手で介護することが困難になる。そうなれば特別養護老人ホームやグループホームのような、施設に入居させてプロの介護職による介護に委ねるしかない。

 私はそこではじめて、「認知症老人が人生最後の日々を過ごす社会的機能を持つ施設」としてのグループホームに向き合うことになった。それまで視界にも入っていなかった社会施設が、海面に姿をあらわす潜水艦のように自分の目の前に浮上してきた。

(『母さん、ごめん。2 グループホーム編』「はじめに」より)

 2年半におよぶ自宅での母親の介護の記録『母さん、ごめん。』を経て、グループホームに入居した母親との日々をつづる『母さん、ごめん。2 50代独身男の介護奮闘記 グループホーム編』を上梓(じょうし)した科学ジャーナリストの松浦晋也さん。

 ゲストは、日経ビジネス電子版で松浦さんのあとを受けて「介護生活敗戦記」を連載しているNPO法人「となりのかいご」の川内潤さん、ライターの岡崎杏里さん。企業で働くビジネスパーソンの介護相談を数多く受けてきた川内さんが、「親の介護」について、松浦さんと本音全開で語り合います。

(前回から読む

 この本の中では、1つの章を割いて介護制度を論じていただいています。1つ言わせていただくなら、私は、もし介護保険制度が機能していなかったら、家族が介護の最前線に立つことになっていたら、きっと会社を辞めざるを得なくなっていると思うんです。

NPO法人となりのかいご 川内 潤さん(以下、川内):そうですよね。

松浦晋也さん(以下、松浦):僕が自宅介護をしていた2年半を反省の鏡に使っていると(笑)。

 はい、介護保険がなかりせば、松浦さんの本を出すどころじゃなかったでしょうね(笑)。社会保障費の増大は確かに大きな問題ですが、そのおかげで仕事ができて、経済を回す人がいるんだという面はあまり語られないような気がします。

「社会全体で面倒を見る」以外に選択肢はない

松浦:コメント欄でも議論になったんですが、「社会全体で介護の面倒を見る」以外の選択肢はもうすでにないんですよ。どういうことかというと、国はもう介護を放棄します、となったとすると、その仕事はどこに行くかって、全部家庭に行きますよね。

川内:はいはい。

松浦:その家庭に行った介護というのは、あまりいい言い方ではないけれども、効率的にはプロが集団でやるよりも全然悪いわけですよ。

川内:そうです。

松浦:慣れていない素人が個別にやるものになりますから。そうしたら、結局、絶対に国全体としてはもっとひどいことになるんですよ。

川内:そうでしょうね。

 介護の効率が落ちて、GDPを増やす働き手も減って、両方から生産性が落ちるわけですね。

松浦:「こんなに介護が必要な老人がいっぱい出てきて、認知症の老人も増えて、とても社会では支えきれない」という議論は、もっともなようでいて初めから成り立たないんですよ。「それをやらなければ、もっと沈むだけだよ」という話なので。

 もう1つあるとしたら「社会に付加価値をもたらさない人間に手間をかけるべきではない」というものですかね。端的に言うと高齢者の安楽死容認。認知症になったら、自裁する、というコメントも時々連載にいただきます。

松浦:それに対する私の意見は、本にハッキリ書きましたが……。

 認知症の高齢者は、社会での役割を終えた人だ。社会における有用性を失った人といってもいい。そんな人を、社会はどこまでも支えねばならないのか。そのリソースは先のない認知症高齢者ではなく、未来ある若い人を育てることに使うべきではないのか。

 ただでさえ日本は今後少子高齢化が一層進むことが確定している。若い世代に過大な介護の負担を負わせるべきではない。高齢者は進んで社会の負担を減らすべきだ――もっとはっきり書くならば、「認知症高齢者は安楽死させるべきである」という意見である。この問題はもっと一般的に「介護に手間のかかる高齢者は安楽死させるべき」とすることもできるだろう。

 これに対しても私は、私の経験からしか語ることはできない。ただし、経験から得た意見ははっきりしていて、「絶対に否」である。

 なぜ「絶対に否」なのか。認知症の人もまた、「人間としての時間」を生きているからだ。人間である以上、安楽死の強制は殺人に他ならない。

 それまで健康だった人が認知症を発症したとしよう。発症以前を人間として生きてきたものが、発症で突如人間でなくなるわけではない。時と共に症状が進行して心身が衰えていくが、それで人間でなくなるわけでもない。

 「安楽死を」という人は、そこに一線を設けて、そのラインを下回ったら安楽死を、というわけだ。それは「これ以下なら、人間ではないことにする」というのと同じ意味を持つ。

 しかし、そのラインが妥当かどうかは、誰も客観的には判断できない。ただ主観的に「この程度なら」と各々が考えることができるだけだ。

 そして客観的な線引きを目指すほどに、そんな線引きは社会に差別を持ち込んで、人々を分断するものであることが見えてくる。稼げなくなったら死を、なのか。それまでの人生の稼ぎを使い尽くして社会に依存するようになったら死を、なのか。なにか特段の功績とされる事績があれば、多少マイナスでも生かしておいてもらえるのか。

 そもそも「稼げる、稼げない」は社会における絶対的な人間の質の指標なのか。「稼げないが、社会に必要不可欠な仕事」はいくらでも存在する。

 そこに人為的な線引きをして、「役に立たなくなった人を排除する」のは社会を分断する行為だ。そんなことをすれば、「あなたは生きながらえる人だが、私は死なねばならぬ人だ」と社会に亀裂が入り、人はお互いに憎しみ合うようになり、最後は社会が崩壊してしまう。

(『母さん、ごめん。2』270ページより抜粋)

松浦:「認知症になったら自分は安楽死を選ぶ」と言っている人は、絶対に安楽死なんかできないよって強く思います。自裁にはものすごく強い意志が必要ですし、健康なときに考えて決めたことが、病気になったときに引き続き合理的で正しいと思えるかといえば、そんなわけはありません。

 焼き肉食べながら「明日からダイエットする」って言ってるのに似ているかな。

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