松浦:Yさんが休暇で会社にいない頃に、連載のコメント欄で読者の方とちょっとやりとりをしたんだけれども、「老人がこれから増えてくる。介護にリソースを取られていたら、日本の生産性はもう落ちる一方だ」という書き込みがありまして。
Y:ああ、そういうお話が盛り上がっていましたね(「グループホームで骨折。これって訴訟を起こすべき?」のコメント欄)。
松浦:論点が多すぎるのでご興味があればそちらを見ていただきたいんですけれど、1つだけ挙げると、国ではもう見ていられないって放り出したら、全部、結局家族に行くんですよね。家族って、つまりは国民じゃないですか。そうすると社会全体の生産性は、介護を家族に丸投げしたほうが落ちるんですよ。
Y:みんなが生命力をガリガリ削られながら働くわけですからね。
松浦:これから老人が増えて、若年層が減るとしても、国として老人の面倒を見ないという選択肢は実はあり得ないんですよ。面倒を見たほうがまだ効率的だから。そのときに、見てくれる人に対して十分な給料を払わないというのもまたあり得ない。老人介護に生産性がないというのは嘘で、介護職にきちんと給料を払えばそれだけGDP(国内総生産)は上がるということです。ケインズ的公共投資ですね。それはもう経済成長に資する公共投資になる。だから、姥(うば)捨山だとかあるいは安楽死させろみたいな話は、経済合理性から見てもないなという気がする。
Y:日経っぽい話をありがとうございます(笑)。
安藤:面白そうですが、それは別の方との対談で(笑)。
松浦:いや、すみません。『日経ビジネス』だから言うわけじゃないけれども。
「介護される側になった自分」を考えておく
Y:さて、そろそろお時間のようなんですが、最後にもし何かありましたら。
松浦:もう一つ言うなら、介護する側になると、実は介護される側になったときの自分を考えなきゃいけなくなるんですよね。それはもう、嫌でも考えてしまう。
安藤:される側になったら、ということですよね。そこをたまに考えるんですけど、おむつ交換ってやっぱり一番のハードルだと思うんですよ、される側からしたら。する側からしたら別におむつ交換は何とも思ってないし、もうどんどん、排せつされても、むしろ体調がいいわけですから。
Y:それはそうですね、詰まっちゃうより。
安藤:ずっといいんです。ただ、それがされる側になったとしたら、どう思うのかなという目で見てしまうかもしれないです。それはたまに考えますね。我慢してしまうのかなとか。
Y:そういうことが分かって、する側の気持ちが分かっていても、やっぱりちょっとそこは抵抗が。
安藤:慣れるものなのかとか、ごめんねと思うのか、うん、考える、すごい深いところなんですよね。おむつ交換って結構。
Y:そうか。松浦さん、考えたことあります? 自分がされる側になったときを。
松浦:うん、「おそらく今考えているような対策は、全てできないんだろうな」と。
Y:考えるだけ無駄だろうと(笑)。
松浦:そうなると考えるべきなのは、逆に、自分が「今」できることですよ。例えば何かといえば、さっきのお金の話ですよ。お金の話って基本的にパスワードの話じゃないですか。預金を引き出せる、出せないという話ですから。
Y:なるほど。
松浦:そうすると他にも、僕は今、携帯端末とかネットの有料サービスとか山のように使っているけれど、これをどうするか。今も、親の携帯電話が解約できないというような問題がネットに出ています。自分が何もできなくなった状態になったら、誰に後片付けを頼むかって。これは自分でも対策を考えるべきだし、社会のシステムの側で何か考えなきゃいかんよなと思います。
安藤:自分が何かあったときのためにですね、普通は家族に頼むことになるのかな。
Y:私は一人っ子だし、パスワードを奥さんに託すことはちょっと怖くてできないですね(笑)。
安藤:奥様に見られたら困るわけですか(笑)。
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