その一方で「疲れて疲れてしょうがない」というのは、老いて動かなくなった今現在の体が発する信号そのものだ。Oさんは「なにか肉体的不快感があるのかもしれません。それはどこかが痛いのかもしれないし、痒いのかもしれないけれど、言葉にできないんです。だからどんどん機嫌が悪くなっていく」と言う。

 「我々は話を合わせて会話をしますので」というOさんに、母の子ども時代のエピソードの話をする。海軍軍人の娘として生後しばらくあちこちを引っ越して移動していた母だが、物心ついた後は祖父が横須賀、そして東京の勤務となったので、神奈川県の逗子に住むことになった。逗子の思い出はいくらか聞いているのでOさんに伝えて「これで話をつないでください」とお願いする。

「スローターハウス5」を思い出す

 記憶の中の人生の時間を主観的に行ったり来たりする――まさにそんなSF小説がある。カート・ヴォネガットの『スローターハウス5』(1969年)だ。

 主人公のビリー・ピルグリムは、記憶のままに自分の人生の任意の時へとタイムトラベルを繰り返す。ジョージ・ロイ・ヒル監督による映画化(1972年)では、冒頭で年老いたビリーがタイプライターを打っているとタイムトラベルがおきて、第2次世界大戦・欧州西部戦線で友軍とはぐれて雪の中を一人さまよう若き日のビリーに場面転換するのだった。

 ひょっとするとヴォネガットは認知症の身内を観察することで、この作品のアイデアを得たのかもしれないな、と考える。

 この小説では、意識はいつでも自分の人生における任意の時点にタイムトラベルできるのだから死は無意味になる。というわけで、死がことさらに軽く描かれている。

 が、現実は「スローターハウス5」よりもずっと残酷だ。少女に戻った母の自意識は、依然として衰え行く肉体の中にあって、衰え故のなんらかの不快感を抱き、しわがれた老女の声で「疲れて疲れてしょうがない」と不機嫌さを発散するのだ。

 母は自らの人生で得たそれなりに豊かな蓄積、豊かな記憶を、アルツハイマー病によって、失いつつある。まるで大気圏に再突入して分解する探査機のように、母は不可逆の分解プロセスをたどりつつある。

 そのひとつの表れが「あんた誰?」だったのだ。

 そうだった。Yさん、あなたの言った通りだ。そろそろ還暦が見えてきた身であっても、母に「あんた誰?」と言われるのはきびしいもんだよ。さびしいもんだよ。

松浦さんの連載はこちらからお読みになれます。連載に加筆された単行本はこちらから→『母さん、ごめん。

この記事はシリーズ「介護生活敗戦記」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。