それでも、「一人で入浴する」ことを含めて、「自分の譲れない部分を貫き通すことができた」ということに母は納得していて、私も(結果的に、ではありますが)彼女の意思を尊重できたことは、意外にも母の「介護」に関しては、後悔は少ないのです。

 父の介護も合わせて、人生の半分以上を介護と共に歩んできた私は、ずっと「介護が終わる日」の後に来る焦燥感におびえていました。

 でも、今は少しずつ前を向くことができています。それは、この連載に参加することができ、川内さんから“介護の要”について考える機会を与えてもらっていたことが、大きく影響していることは間違いありません。

 今、介護中の方がそこまで先を考えることは難しいかもしれません。

 ただ、この連載には「介護が終わる日」の先のこと、さらには親の介護を通して「自分はどう介護されたいか」「どんな最期を迎えたいか」までを包括する内容になっている。それを改めて、自身の体験から気づかされ、読者の皆さんにも伝えたく、今回、記事を書かせていただきました。

 この連載から学んだことと母の死により考えたことを、川内さんに話しました。
 すると、川内さんは、

「“介護”や“看取り”は、皆さんが思い描いているようなイメージ通りでないと、ダメですか?」
「“介護”や“看取り”って、誰かが近くにいてあげることが、正解なのでしょうか?」

いい介護、いい人生、いい旅立ち方とは……。

 他人から見たら、どんなにつまらないことでもかまわない。自分の本当に好きなことを、思い通りに貫いて生ききることができたら、それは、ご本人にとっても、ご家族にとっても、いい介護、いい人生だったと言えるのではないか――。

 人生同様、死に方もその人だけのものなのだ。
 川内さんはそうおっしゃっているのだと思います。

 きっと、「これが正解だ!」というものはありません。そんな中で私は自らの経験から考えた答えは、“介護”も“看取り”もイメージ通りにならないことが多く、現実に起きたことを受け入れていくしかない。誰も近くにいなくても、本人が大切にしていたことに気づき、家族として少しでも寄り添うことができれば、「介護が終わる日」の先も前を向いて生きていける、ということでした。

 あなたの答えはどうでしょうか?

 私の話にここまでお付き合いくださった読者の皆さんには、この機会に川内さんからの問いに対して、“イメージ”にとらわれず、“介護の要”である「介護される人の気持ち、望むことを大切にする」を真ん中に、“介護”と“看取り”について、それぞれの答えを考えていただければと思います。

 ぜひ、皆さんが感じたことをコメントに投稿してみてください。“介護”と“看取り”について、一緒に考えていきましょう。

この記事はシリーズ「介護生活敗戦記」に収容されています。WATCHすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。