前回の記事の最後の部分で、梅津さんは「今まではエンジン屋さんがクルマ造りの中心にいて、マツダなんか、まさにそういう会社ですが、今回私がこうやって出させてもらうのは、ある意味そういう理由ですね」と発言された。

 マツダに限らず、クルマの最重要部品であるエンジンの開発は、自動車メーカーの文字通りの「花形部署」が行っている。“そうではない”部署に所属する梅津さんが、今後のマツダを占う上で、非常に重要な位置づけにある同社史上初の量産EVであるMX-30の開発者インタビュイーとして登場したのはどうしてなのか。

 「そういう理由」とはどういう理由か。そもそも梅津さんはどのようなキャリアを歩んできたのか。今回はそのあたりから伺っていこう。

車両開発本部 操安性能開発部 上席エンジニア 梅津大輔さん
車両開発本部 操安性能開発部 上席エンジニア 梅津大輔さん

フェルディナント・ヤマグチ(以下、F):今まではエンジン屋さんがクルマ造りの中心で、梅津さんはエンジン開発に携わってこなかった。失礼な言い方ですが、それでは今まで冷や飯を食ってきたということですか?

車両開発本部 操安性能開発部 上席エンジニア 梅津大輔さん(以下、梅):いやいや、そんなことはありません(苦笑)。今までもさんざん好き放題に、やりたい放題にやってきましたから。僕はもともとデザインの勉強をしていたんです。ですがマツダには、デザイナーとしての入社ではないんです。もう15年も前の話ですが。

F:もともとはデザインの勉強をされていた。今とはぜんぜん違う内容ですね。

:ともかくクルマが好きで好きでたまらなくて、何とかクルマを造る仕事に関わりたくて、それでデザイナーを志したんです。でもまるでダメだった。あまりにも“今のクルマ”が好き過ぎて、新しいクリエイティブなデザインができなかった。

F:好き過ぎてできない。

デザイナーからサルのお相手に

:やっぱりデザイナーは発想が大事なんですよ。でも僕は、今目の前にあるクルマが好き過ぎて、ああいいなぁ。なんてカッコいいんだろ……と喜んだり感心したりするばかりで、新しいデザインを生み出す、飛び抜けた発想というのができなかったんです。

F:うーむ……。

:実は過去にはマツダや他の自動車メーカーさんにもデザイン実習生としてインターンシップに行っているんです。だけどぜんぜんダメでした。新しいものが生み出せない。とても残念だし悔しいことだけど、僕自身デザイナーとしてダメだったんです。スキルが不足していたんです。新しいデザインが生み出せないのなら、デザイナーとして失格です。でもクルマは大好きだし、運転も好きだし、何としてもクルマを造りたい。ではどうするか。ガラッと方向を変えて、大学院では人間工学を学びました。プロダクトデザインは人間工学も深く関わりますから。

F:大学の学部は芸術系だったのですか?

:ええ。大学は芸術系でした。

F:では理系ではない。数字を扱う学部ではない。

:ぜんぜん違います。それで大学院はまったく違う方向の基礎医学に行きました。そこで神経系の研究をやったんです。実験室にはサルがいたりしましたね。動物実験用の。

F:サ、サル……。解剖するんですか?

:解剖はしません(笑)。反応を見るんです。僕は自動車が好きだから、サルを触らずにある自動車メーカーさんと共同で、運転しているときの人間の反応を研究していました。その研究結果を学会で発表したら、マツダの当時の車両実験研究部のトップから、君、ウチに来て一緒にやらないかと声をかけてもらって。マツダはずいぶん前から感性工学の研究をしていたんですね。

 ちなみに梅津さんは筑波大学大学院の人間総合科学研究科を修了されている。

F:研究発表している院生をピンポイントで狙い撃ち。やるなぁマツダ。それじゃ入社以来もうやりたい放題、好き放題で。

:いや、そうはいきません。今でこそウチは「人間中心のダイナミクス」と言っていますけれど、僕が入社当時のマツダはとてもそんな雰囲気ではありませんでした。入社して人間工学を研究するチームには配属はされたのですが、そこではダイナミクス、つまりクルマの走りの仕事はやっていなかったんです。それは操安やパワートレインがやる仕事であって、ウチには関係ないだろ、それより居住性を考えろ、みたいな(苦笑)。当時はそんな感じだったんです。でも僕は、ペダルやハンドルのレイアウトを考えるならダイナミクスと一緒に考えるべきだと思っていました。

マツダ広報:マツダが現在採用しているオルガン式のアクセルペダルを提案したのも、実は梅津です。

:そこをブレークスルーしてくれたのが藤原(清志 代表取締役副社長執行役員兼COO)です。藤原が推進してくれて今の状態になったんです。

 なんと。好き放題の梅津さんのケツ持ちは藤原大明神だったのだ。

F:当時の藤原さんは、どのようなお立場だったのですか?

マツダ広報:パワートレインの本部長でした。

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